コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

土御門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
土御門
つちみかど はれよし
生年月日 1884年8月4日
没年月日 (1934-04-17) 1934年4月17日(49歳没)
前職 農事試験場扱師
所属政党 研究会
称号 従四位
勲四等
子爵
農学士
親族 土御門晴榮(養祖父)
三室戸敬光(従弟)

選挙区 貴族院子爵議員
当選回数 1回
在任期間 1932年7月10日 - 1934年4月17日
テンプレートを表示

土御門 (つちみかど はれよし、1884年8月4日[1] - 1934年4月17日)は、日本農学者政治家位階従四位勲等勲四等爵位子爵学位農学士幼名善光(よしみつ)。旧姓三室戸(みむろど)。名前の「」は「日」に「靑」だが、この字にはJISコードが割り当てられていないため、土御門 晴善(つちみかど はれよし)とも表記される。

東京高等蚕糸学校教授、農事試験場扱師、貴族院議員(1期)などを歴任した。

概要

[編集]

天文暦道陰陽道を家業としていた土御門家の当主である。安倍晴明など著名な陰陽師を輩出した安倍氏嫡流であるが、明治維新以降は陰陽道も衰退し、土御門家伝来の特権も失われていた。そのような情勢下で、農学者として研究に励むなど、自然科学の分野で活躍した。晩年は貴族院議員を1期務めるなど、帝国議会において活動した。

来歴

[編集]

生い立ち

[編集]

1884年華族三室戸和光の三男として生まれた[2]三室戸家は明治維新前は名家家格を有しており、維新後は子爵となっていた。父である和光は公家であったが、維新後は伊勢神宮大宮司などを務めた。

その後、華族の土御門晴行の養子となった[2]。土御門家は維新前は半家の家格を有しており、維新後は子爵となっていた[2]。かつては天文暦道陰陽道を家業としていたが[2]、明治に入ると陰陽道は衰退の一途を辿り、家業にまつわる特権なども失われていった。なお、養父である晴行は1883年生まれのため[2]、晴善とは1歳しか違わなかった。のちに、法制官僚である武田千代三郎の長女と結婚した。

農学者として

[編集]

農学を熱心に学び、農学士の学位を取得した[3]東京高等蚕糸学校にて教鞭を執り、助教授を経て、1914年5月4日教授に昇任した[4]。その後、農林省の附属機関である農事試験場にて、扱師として職務にあたった[3]養蚕についての研究に取り組み、専門書も上梓している[5]

政治家として

[編集]

1924年7月、養父である土御門晴行が死去した[3]。翌年9月、晴行の養子として子爵の爵位を継ぎ[3]家督を相続した[3]1926年4月14日、善光から晴善に改名した[6]1932年の第7回貴族院子爵議員選挙にて選出され[3]、同年7月10日に貴族院議員に就任した[7]。貴族院では研究会に所属した。なお、実家の三室戸家は従弟の三室戸敬光が継承していたが、敬光もこのころ貴族院議員として研究会に所属していた。1934年4月17日、貴族院議員として在職中のまま死去した[8][9]。土御門家の家督と爵位は、長男の土御門凞光が継いだ[2]。凞光は早世したが、その後は晴善の二男である土御門範忠が継承した[2]

家族・親族

[編集]

略歴

[編集]

栄典

[編集]

著作

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 霞会館 1996, p. 105.
  2. ^ a b c d e f g 霞会館諸家資料調査委員会編纂『昭和新修華族家系大成』下巻、霞会館1984年、100頁。
  3. ^ a b c d e f 「新顔の異色――音楽家の近衛子や故後藤伯と高橋蔵相の御曹子二人」『大阪朝日新聞1932年6月16日
  4. ^ 「叙任及辭令」『官報』528號、印刷局1914年5月5日、88面。
  5. ^ 土御門晴善述『絹糸化学』弘道館1930年
  6. ^ 「彙報」『官報』4096號、印刷局1926年4月22日、566面。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、40頁。
  8. ^ 「彙報」『官報』2187號、印刷局1934年4月19日、495面。
  9. ^ 「帝國議會」『官報』2189號、印刷局1934年4月21日、568面。

参考文献

[編集]
  • 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《下巻》吉川弘文館、1996年。 
日本の爵位
先代
土御門晴行
子爵
土御門家第3代
1925年 - 1934年
次代
土御門凞光
その他の役職
先代
土御門晴行
土御門家当主
1925年 - 1934年
次代
土御門凞光