土屋得所
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土屋 得所(つちや とくしょ、または公章、文化11年(1814年) - 慶応3年1月15日(1867年2月19日))は、幕末の医師。字は公章。通称得所。息子は医師の土屋寛之(裕)。鯖江藩で種痘に尽力した。
略歴
[編集]- 勝山藩藩医秦氏に生まれる。秦魯斎の弟。諱は篤之、雅名は煥、字は公章、通称秀佑(祐)のちに得所と改め、古香・楽斎・復堂と号す[1]。天保3年(1832年)鯖江藩藩医土屋氏を嗣ぐ。
- 天保6年(1835年)4月、京都で百々氏に入門し漢方を学ぶ[2]。
- 弘化3年(1846年)伊東玄朴に入門(1848年帰国)[1]。
- 弘化5年(1848年)1月、鯖江藩奥医師本席[3]。
- 嘉永3年(1850年)3月、福井藩町医笠原良策から痘母となる子ども2名の派遣を受け、父仲宅方で種痘開始[4]。同年7月中旬~11月中旬、伊東玄朴のもとに再度遊学[5]。同年12月父仲宅死去により家督相続(18人扶持)[3]
- 安政4年(1857年)閏5月、鯖江藩種痘主裁。
- 慶応3年(1867年)1月15日死去。[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c 福田源三郎『越前人物志』中、p.344-345(国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『京都の医学史』資料篇、1980年
- ^ a b 『鯖江市史』史料編5 鯖江藩御家人帳(上)、1977年
- ^ 笠原白翁『白神記-白神用往来留-』福井県医師会、1997年、pp.85-86
- ^ 『柴田収蔵日記』2