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土原豊見親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

土原 豊見親(んたばる とぅゆみゃ、生没年未詳[1])は、16世紀前期の多良間島の豪族である。

概要

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童名は宇増呂(うどぅる、うそろ)[2]、名は春源[1]宮古島の豪族仲宗根豊見親に従い、1500年オヤケアカハチの乱で功績をあげた[1]。その後鬼虎征伐[注釈 1]にも参加した。このふたつの功績で尚真王から多良間島主に命ぜられ、豊見親の称号を授けられた[5]

また、御嶽の創建を行い、漁法の開発を行ったなどといわれており[1]、土原豊見親のニーリ(宮古列島の古謡)やミャーカ(宮古列島の巨石墓)が残っている[6]

島内には1530年に土原豊見親が土地を開墾した記録が残っているが、生没年不詳。多良間島の多良間神社は、土原豊見親を祀ったものである[7]

脚注

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  1. ^ a b c d 土原豊見親 (んたばるとぅゆみゃ)”. 琉球新報デジタル. 2021年11月20日閲覧。
  2. ^ 平良市史 第9巻 (資料編 7 御嶽編)」国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ 稲村賢敷 1972, p. 224.
  4. ^ 平良市史 第8巻 (資料編 6 考古・人物・補遺)」国立国会図書館デジタルコレクション
  5. ^ 宮古島庶民史」国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ 土原豊見親のミャーカ|多良間村公式ホームページ”. www.vill.tarama.okinawa.jp. 2021年11月20日閲覧。
  7. ^ 沖縄自治名鑑1963年版」国立国会図書館デジタルコレクション

注釈

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  1. ^ この討伐が行われたのは1513年[3]とも1522年[4]ともいわれている。

参考文献

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関連項目

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