土原豊見親
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土原 豊見親(んたばる とぅゆみゃ、生没年未詳[1])は、16世紀前期の多良間島の豪族である。
概要
[編集]童名は宇増呂(うどぅる、うそろ)[2]、名は春源[1]。宮古島の豪族仲宗根豊見親に従い、1500年のオヤケアカハチの乱で功績をあげた[1]。その後鬼虎征伐[注釈 1]にも参加した。このふたつの功績で尚真王から多良間島主に命ぜられ、豊見親の称号を授けられた[5]。
また、御嶽の創建を行い、漁法の開発を行ったなどといわれており[1]、土原豊見親のニーリ(宮古列島の古謡)やミャーカ(宮古列島の巨石墓)が残っている[6]。
島内には1530年に土原豊見親が土地を開墾した記録が残っているが、生没年不詳。多良間島の多良間神社は、土原豊見親を祀ったものである[7]。
脚注
[編集]- ^ a b c d “土原豊見親 (んたばるとぅゆみゃ)”. 琉球新報デジタル. 2021年11月20日閲覧。
- ^ 「平良市史 第9巻 (資料編 7 御嶽編)」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 稲村賢敷 1972, p. 224.
- ^ 「平良市史 第8巻 (資料編 6 考古・人物・補遺)」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 「宮古島庶民史」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ “土原豊見親のミャーカ|多良間村公式ホームページ”. www.vill.tarama.okinawa.jp. 2021年11月20日閲覧。
- ^ 「沖縄自治名鑑1963年版」国立国会図書館デジタルコレクション
注釈
[編集]参考文献
[編集]- 稲村賢敷『宮古島庶民史』(新版)三一書房、1972年。doi:10.11501/9769194 。
- 稲村賢敷『宮古島庶民史』稲村賢敷、1957年。
- 『沖縄大百科事典』沖縄タイムス、1983年
- 今林直樹『先島諸島の地理・民俗・歴史―宮古諸島と八重山諸島―』、2015年