園部マキ
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そのべ まき 園部 マキ | |
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生誕 |
1885年12月1日 宮崎県高鍋 |
死没 | 1944年1月??日 |
国籍 | 日本 |
職業 | 保育事業家、看護師 |
園部 マキ(そのべ まき、明治18年(1885年)12月1日 - 昭和19年(1944年)1月[1])は、保育事業家[1]。
大正3年(1914年)に、京都市最初の保育園を開設した[1][2]。
経歴
[編集]明治18(1885)年12月1日、宮崎県高鍋で士族の家庭に生まれる[3]。旧姓は、藤田[3][注釈 1]。
明治33(1900)年に、同志社女学校(現在の同志社女子大学)入学[3]し、明治38(1905)年、に卒業[3]する。同年、京都看病婦学校1年に編入[3]し、同年5月には渡米[3]、フィラデルフィアの一致協会附属看護学校[1](Presbyteriam Hospital of Nursing[3])に留学する。
明治42(1909)年4月、卒業[3]。その後、社会施設事業等を見学視察[3]し、同年11月に帰国[3]。
大正3(1914)年、信愛保育園を開設。これが、京都市最初の保育園である[1][2]。また同年、園部逸堂と結婚する[3]。
大正10(1921)年7月、ニューヨーク州立婦人病院附属看護学校に2度目のアメリカ留学[3]し、翌大正11(1922)年、同校の看護の過程を終了する。その後、再び社会施設事業等を見学視察の後、帰国[3]。
昭和2年(1927年)に、婦人公同委員(京都における民生委員の前身)の委嘱を受ける。これは初の京都婦人民生委員である[3]。また、昭和9(1934)年には、母子ホーム 母子の家・希望寮を開設[3]するなど、保育園以外の社会事業も行う。
昭和19年(1944年)1月、胃潰瘍により永眠[3]。
脚注
[編集]出典
[編集]注釈
[編集]- ^ 藤田牧子、園部マキ子という表記もみられる。(徳川,1995)