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国重就恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
国重就恒
時代 江戸時代
生誕 慶長14年(1609年
死没 寛文13年8月27日1673年10月7日
改名 国重梅寿丸(幼名)→国重就之→就恒
別名 通称:新七、又右衛門
主君 毛利秀就綱広
長州藩
氏族 清和源氏義光流安芸武田氏庶流国重氏
父母 父:国重元恒、母:高須元士の娘
兄弟 女(渡辺元祐室、井上元茂室)、就恒、女(井上就政室)、就久、女(賀屋就全室)、女(飯田正左衛門室)
井村春直の娘
就信政恒、女(南方就定室)、仲直之
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国重 就恒(くにしげ なりつね)は、江戸時代武士毛利氏の家臣で長州藩士。父は国重元恒

生涯

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慶長14年(1609年)、毛利氏家臣・国重元恒の子として生まれ、元和6年(1620年)に毛利秀就加冠により元服。「就」の偏諱を与えられて「就之」と名乗ったが、後に「就恒」に名を改めた。また、寛永9年(1632年6月1日には「又右衛門尉」の官途名を与えられている。

寛永16年(1639年)に父が死去したため後を継いで毛利秀就、綱広の二代に仕え、寛文13年(1673年8月27日に死去。享年65。子の就信が後を継いだ。

就恒は、曽祖父・信正、祖父・就正、父・元恒の三代の事績を書付として書き残しており、孫の恒信の代に『閥閲録』に収められた。

参考文献

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