国重就恒
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 慶長14年(1609年) |
死没 | 寛文13年8月27日(1673年10月7日) |
改名 | 国重梅寿丸(幼名)→国重就之→就恒 |
別名 | 通称:新七、又右衛門 |
主君 | 毛利秀就→綱広 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 清和源氏義光流安芸武田氏庶流国重氏 |
父母 | 父:国重元恒、母:高須元士の娘 |
兄弟 | 女(渡辺元祐室、井上元茂室)、就恒、女(井上就政室)、就久、女(賀屋就全室)、女(飯田正左衛門室) |
妻 | 井村春直の娘 |
子 | 就信、政恒、女(南方就定室)、仲直之 |
国重 就恒(くにしげ なりつね)は、江戸時代の武士。毛利氏の家臣で長州藩士。父は国重元恒。
生涯
[編集]慶長14年(1609年)、毛利氏家臣・国重元恒の子として生まれ、元和6年(1620年)に毛利秀就の加冠により元服。「就」の偏諱を与えられて「就之」と名乗ったが、後に「就恒」に名を改めた。また、寛永9年(1632年)6月1日には「又右衛門尉」の官途名を与えられている。
寛永16年(1639年)に父が死去したため後を継いで毛利秀就、綱広の二代に仕え、寛文13年(1673年)8月27日に死去。享年65。子の就信が後を継いだ。
就恒は、曽祖父・信正、祖父・就正、父・元恒の三代の事績を書付として書き残しており、孫の恒信の代に『閥閲録』に収められた。