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国王の孤児

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国王の孤児: órfãsd'el-rei ポルトガル語: [ˈɔɾfɐ̃ʒ dɛlˈʁej] )は、ポルトガルの植民地政策の一環として、ポルトガル帝国時代、本国から海外植民地に送られたポルトガル人の少女孤児である。孤児は先住民の支配者またはポルトガル人入植者と結婚した[1]

結婚

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「国王の孤児」はすべて若い女性であり、その父親は王国のための戦いで亡くなったポルトガル人男性だった[2][3]。彼女たちはポルトガルの植民地に送られた[4][5]。このためアジアの植民地には、従来考えられていたよりも多くのポルトガル人女性がいた[6]。Bernard Sta Mariaは次のように書いている「1545年以降、国王ジョアン3世はインド(と東アジア)に華やかさと優秀さを兼ね備えた若いポルトガル人女性を送り始めた。『女王の孤児』として知られている彼女たちは、現地で若い男性と結婚するために送られた」彼女たちは貴族の出である場合もそうでない場合もあった[7][8][9]

「国王の」とあるとおり、彼女たちがポルトガル領インドに送られる前後に、ポルトガル政府が面倒を見て教育を行った[5][10]。特にゴアが少女の大半を受け入れた[11][12]。一部はブラジル植民地にも送られた[13]。年齢制限は12〜30歳だった[14]

彼女たちはリスボンや他のポルトガルの都市を出発し、ポルトガル領インドに到着した。持参金などのインセンティブは、結婚相手に少女と一緒に与えられた。持参金とは、公式地位または土地だった[15][16]。この制度が続いた期間について、「システムは明らかに18世紀(の初頭)まで断続的に機能し続けた」と言われている[17]

特に、大量の少女と持参金がジョアン3世の王妃カタリナ・デ・アウストリアによって送られた[18]イベリア連合の間、ポルトガルを治めたハプスブルクの王はゴアに孤児を送り続け、現地当局からの抗議は無視する方針だった[19]。「白人、カトリック、そして出産可能」であることがこの制度で選ばれるための要件だった。現地当局が国王に抗議した理由は、夫となる男性の不足だった[20]。一方、ポルトガル女性の継続的なインドへの移民の支持者は、現地で宣教にあたっていたイエズス会の神父アルバロ・ペンテアードなどであった[21][22]。孤児を送り込む目的の1つは、ポルトガル人男性が他の人種の女性と結婚するのを止め、ポルトガル人の妻を提供することだった[23][24][25][26]。混血を抑止し、白人ポルトガル人の人口増を目論んだ[27]。ゴアでのポルトガル人の男女比率は偏ったもので、孤児の移民はこれを是正する試みだった[28]

フレデリック・チャールズ・ダンバース英語版は1894年に次のように書いている。

「孤児の少女をリスボンの孤児院からインドに送って、彼女たちに夫を与える慣習はしばらく続いた。これは同時に、自国人の妻をインド在住のポルトガル人に与えることで、インド人女性との結婚を防ぐものでもあった。多くの場合、これらの孤児は国家から持参金を与えられ、それは政府の役職に任命するという形を取ることもあった。これは、少女たち自身に与えられた持参金だが、もちろん夫がその職に就くことを意図していた。両親による国家への献身を考慮して、インド植民地政府の役人の娘にも同様の権利が与えられることもあった。あるときなど、この持参金がコドゥンガルールの知事職への指名だったこともあった」[29]

オランダの私掠船がポルトガルの孤児を船ごと鹵獲し、花嫁として連れ去ったとの話もある[30]英領インドの歴史家ジェームズ・ウィーラー英語版は、1881年に次のように述べている。

「ポルトガル国王の慣習として、良い生まれの孤児の少女たちを毎年ゴアへと送った。彼女たちにはポルトガル領インドで夫を得られるのに十分な持参金が付けられた。その年にインドに送られたポルトガルの孤児の少女3人のうちの一人がドンナ・ルシアだった。船団がオランダ人に攻撃され、彼女たちを乗せた船を含めた何隻かが捕獲された。3人の乙女はスーラト[31]へと連れて行かれた。スーラトではハンサムかつ名声ある商人たちが彼女たちとの結婚を強く望んだ。3人すべてがプロテスタントになり、プロテスタントの夫と結婚した。2人は夫と一緒にジャワまたは他の場所に去ったが、ドンナ・ルシアはスーラトで最も裕福なオランダ人と結婚し、そこに留まった。しかし、デッラ・ヴァッレ[32]はドンナ・ルシアは名ばかりのプロテスタントにすぎないことに気づいた。彼女は公にはプロテスタントという「異端」に従うことが義務付けられていたが、私生活においては彼女自身の知識とプロテスタントの夫の黙認に支えられてカトリック信仰のままだった」[33]

ブラジルのバイアは、1551年に孤児の何人かを受け入れた[34]

持参金とインセンティブ

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孤児の求婚者を惹きつけるために、レドンド伯爵[35]は持参金に1,000ゼラフィン[36]を追加した[37]。インドで生まれた女性の孤児には、その特権はなかった[38]

現地支配者との結婚

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一部の孤児は、亡命中かポルトガル人と同盟していた先住民の支配者と結婚した[4][39]

追放されたペンバ島元統治者(ワーリー)はイスラム教からキリスト教に改宗し、1607年にドナ・アンナ・デ・セプルベダという名前の国王の孤児と結婚した。そして名前をフェリペ・ダ・ガマ、ドン・フィリペ、またはフィリップに変更した。しかし、彼は後にイスラム信仰に戻った[40][41][42][43][44]。息子のエステバンが結婚の結果生まれた[45]。彼は1596年にペンバからモンバサに追放されていた[46]

1500年代に亡命したモルディブの支配者ハッサンは、ポルトガルの孤児と結婚した[47]。彼女の名前はD.フランシスカ・デ・バスコンセロス[48][49][50][51]。他にもポルトガルの少女は、ゴアでも高いカーストの先住民と結婚した[52]

オランダ人の私掠船によって誘拐されたポルトガルの孤児の1人は、アクバル大王のハーレムに行き着いたとされる[53]

関連項目

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脚注

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  1. ^ Sarkissian (2000), p. 22.
  2. ^ More & Manickam (2001), p. 126.
  3. ^ Stephen (2006), p. 271.
  4. ^ a b More & Manickam (2001), p. 127.
  5. ^ a b Journal of Indian History (1980), p. 57.
  6. ^ Coates (2001), p. 121.
  7. ^ Maria (1982), p. 34.
  8. ^ Boyajian (2007), p. 33.
  9. ^ The Indonesian Quarterly (1973), p. 117.
  10. ^ Coates (2001), p. 145.
  11. ^ Purabhilekh-Puratatva (2000), p. 9.
  12. ^ Portuguese Studies Review (2006), p. 212.
  13. ^ Telfer (1932), p. 184.
  14. ^ Coates (2001), p. 143.
  15. ^ The Tragic History of the Sea (1959), p. 21.
  16. ^ Boxer (1975), p. 66: "The chief exception to this rule of officially discouraging female emigration from Portugal to the East lies in the so-called "Orphans of the King" (Órfãs do Rei), whose numbers Dr. Germano da Silva Correia has investigated so diligently, if often so uncritically. These, as their name implies, were orphan girls of marriageable age, who were sent out in annual batches from orphanages at Lisbon and オポルト (and very occasionally from a few other places such as コインブラ) at the expense of the Crown. They were usually provided with dowries in the form of minor government posts, or with small grants of land, for the men who might marry them after their arrival at Goa. The first contingent left Lisbon in 1545 and the system apparently continued to function intermittently until the eighteenth century."
  17. ^ Santa Barbara Portuguese Studies (1995), p. 43.
  18. ^ Ward (2009), p. 317.
  19. ^ Journal of Indian History (1980), p. 59.
  20. ^ Russell-Wood (1968), p. 32.
  21. ^ Délio de Mendonça (2002). Conversions and Citizenry: Goa Under Portugal, 1510-1610. Concept Publishing Company,. pp. 360, 373. https://books.google.co.jp/books?id=Mh3kKf0VSfQC&lpg=PA373&vq=penteado&dq=Penteado&hl=ja&pg=PA374. ""Na cidade de Goa e suas ilhas ha muitos canarys gentios que morrem sem herdeiros , e suas heranças que sam palmares , arozaes, hortas e outras propriedades ficam a vossa Alteza. Faça dellas merçe a Misericordia da dita cidade pera casamento de orfãs , filhas de portugueses proves , que a muitas na dita cidade e em outras fortellezas."” Information written by Fr . Álvaro Penteado in favour of the Portuguese orphan girls residing in India in 1543." 
  22. ^ Mendonça (2002), p. 373.
  23. ^ Greer, Mignolo & Walter (2008), p. 215.
  24. ^ Proceedings of the Annual Conference (1995), p. 157.
  25. ^ Mendonça (2002), p. 369.
  26. ^ Gracias (1996), p. 38.
  27. ^ Gracias (2000), p. 81.
  28. ^ Ballantyne & Burton (2009), p. 236.
  29. ^ Danvers (1894), p. 225.
  30. ^ Wheeler (1996), p. 24.
  31. ^ インド北西部の港湾都市。1616年にVOCの拠点が置かれるなどオランダと関係が深かった。オランダ領スーラト英語版を参照。
  32. ^ この話の情報源は17世紀前半にインドを旅したイタリアの音楽家で作家のピエトロ・デッラ・ヴァッレ英語版
  33. ^ Wheeler (1881), pp. 425–426.
  34. ^ Bethell (1984), p. 47.
  35. ^ おそらく1561年から1564年にインド副王を務めたFrancisco Coutinhoのこと。
  36. ^ 高瀬弘一郎 (2006). モンスーン文書と日本: 十七世紀ポルトガル公文書集. 八木書店. p. 246. ISBN 9784840620222. https://books.google.co.jp/books?id=cjMOEBHCxWwC&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false. "Xerafin銀貨 (1 xerafin = 5 tangas = 300 reis)" 
  37. ^ Gracias (2000), p. 83.
  38. ^ Gracias (2000), p. 85.
  39. ^ Boxer (1972), p. 59.
  40. ^ Strandes (1971), p. 166.
  41. ^ Gray (1958), p. 17.
  42. ^ Tanzania Notes and Records (1936), p. 74: "1607. Don Phillip (ex-Diwani of Pemba ) accepted Christianity and married Dona Anna, an orphan."
  43. ^ Tanganyika Notes and Records (1953), p. 61: "In 1607 the ex-ruler of Pemba, Don Phillip, became a Christian and married Donna Anna, an orphan."
  44. ^ Reusch (1954), p. 248: "In 1607 the ex-ruler of Pemba, Don Phillip, became a Christian and married Dona Anna, an orphan."
  45. ^ Gray (1975), p. 60.
  46. ^ Rajab al-Zinjibari. “Islam And The Catholic Crusade Movement In Zanzibar”. Muslim Population. 13 January 2016閲覧。
  47. ^ Pyrard de Laval, Francois (1887). “Notices of the exiled kings of the Maldives”. The Voyage of Francois Pyrard of Laval to the East Indies, the Maldives, the Moluccas and Brazil. Vol. 3. Appendix B.. http://www.maldivesculture.com/index.php?option=com_content&task=view&id=191&Itemid=42 13 January 2016閲覧。  (Translated into English from the third French edition of 1619 by Albert Gray assisted by H.C.P. Bell.)
  48. ^ Telfer (1932), p. 184. "One of the Queen's orphans, sent abroad in this way, became Queen of the Maldives."
  49. ^ Gracias (1996), p. 38. "In the mid-sixteenth century the ruler of Maldives, married D. Francisca de Vasconcelos, an orphan who had come from Portugal."
  50. ^ Gracias (1996), p. 83. "There were rare exceptions as in the case of órfãs do rei, D. Francisca de Vasconcelos who married the ruler of Maldives."
  51. ^ Diver (1971), p. 170: "...orphans was waylaid by a Dutch privateer. The crew carried off their prizes to Surat for sale to the highest... One young lady found herself throned Queen of the Maldives."
  52. ^ Coates (2001), p. 160: "As a result, orphan girls, when they did not marry Portuguese, turned to Native Goans, usually higher-caste individuals with financial resources and status."
  53. ^ Diver (1971), pp. 170–171: "Shortly before his arrival, two lovely Portuguese sisters had also reached Delhi in the adventurous fashion of the time... orphans was waylaid by a Dutch privateer. The crew carried off their prizes to Surat for sale to the highest. The beautiful sisters, Maria and Julian Mascarenhas, were bought by one of Akbar's agents, deputed to find fresh inmates for his imperial harem... the young and ardent Akbar's choice fell on Marie, and he made her his Christian wife."

参考文献 

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