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国分寺市立第二小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国分寺市立第二小学校
地図北緯35度42分29秒 東経139度26分41秒 / 北緯35.70806度 東経139.44472度 / 35.70806; 139.44472座標: 北緯35度42分29秒 東経139度26分41秒 / 北緯35.70806度 東経139.44472度 / 35.70806; 139.44472
過去の名称 里仁学校
里仁学舎
里仁尋常小学校
村立里仁尋常高等小学校
村立国分寺尋常高等小学校
国分寺町立国分寺国民学校西分教場
国分寺町立国分寺第二国民学校
国分寺町立国分寺第二小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 国分寺市
設立年月日 1873年
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
学校コード B113221400026 ウィキデータを編集
所在地 185-0034
東京都国分寺市光町3-1
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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国分寺市立第二小学校(こくぶんじしりつ だいにしょうがっこう)は、東京都国分寺市光町にある公立小学校である。

概要

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1873年明治6年)に寺子屋[注 1]から発足した里仁(りじん)学校が前身となっている。国分寺市内で最古の学校であるだけでなく、都内でも有数の歴史ある小学校である[4]。開校以後、里仁学舎、里仁尋常小学校、村立里仁尋常高等小学校、村立国分寺尋常高等小学校、国分寺町立国分寺国民学校西分教場、国分寺町立国分寺第二国民学校、国分寺町立国分寺第二小学校と校名と、立地を変えながら歴史を重ねてきた。また、1968年(昭和43年)までに第五、第六、第八小学校が、本校より独立した。

校章の由来

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国分寺の名にふさわしい国分寺の薬師如来(国の重要文化財)の光景を七角形にデザインしたものである。仏像の体の周りから発した光は非常に遠くまで達するといわれ、それを形象化したもので、仏の知恵を表現している。

建学の精神

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発足当初の校名「里仁(りじん)」は、『論語里仁篇から生まれた名前である[5]。意味を考えると、「里」はたくさんの人々が集う「場」の意で、「仁」は、相手のことを自分のこととして考えられる「深い思いやりの心」を表している。「里仁」には、学問を身に付けるだけでなく、人として大事な「思いやりの心」を育む教育を重んじてほしいという、本校建学の熱い思いが込められている。

沿革

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  • 1874年明治7年)- 里仁学舎が野中新田(現在の国分寺市並木町)の鳳林院に発足する[5]
  • 1886年(明治19年) - 里仁学舎が里仁尋常小学校に改称[6]
  • 1897年(明治30年) - 里仁尋常小学校が榎戸新田字富士本(現在の富士本)の旧浅間神社境内に移転[7][8][注 2]
  • 1899年(明治33年) - 新中藤尋常小学校と合併、里仁尋常小学校とする[7]
  • 1901年(明治34年) - 里仁尋常小学校に高等科を併設(尋常科4年・高等科2年)[9]
  • 1914年大正3年) - 国分寺尋常高等小学校西分教場(尋常科4年)設立[10][11]。国分寺尋常高等小学校と里仁尋常高等小学校を合併し、国分寺尋常高等小学校(尋常科5・6年、高等科1・2年)とし、現在の国分寺市立第一中学校位置へ移転[10]
  • 1928年(昭和2年) - 西分教場が富士本から平兵衛新田(現在の光町)の現在地に移転[12]
  • 1944年(昭和19年)- 西分教場を国分寺町立国分寺第二国民学校へ改称[13]
  • 1947年(昭和22年) - 学制改革により国分寺町立国分寺第二小学校へ改称[13]
  • 1950年(昭和25年) - 校章制定。
  • 1964年(昭和39年) - 市制施行により、国分寺市立第二小学校と改称。
  • 1988年(昭和63年) - わかば学級を開設。

アクセス

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JR中央線国立駅北口より戸倉循環(稲荷神社廻り)バス(国23[立川バス])もしくは国北町公園行きバス(国24-2[立川バス])乗車後「国分寺第二小学校」バス停下車すぐ。

著名な卒業生

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脚注

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注釈

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  1. ^ のちに里仁学舎となる寺子屋は現在の国分寺市並木町の鳳林院(野中新田〈野中新田六左衛門組〉の黄檗鳳林禅院)[1][2]に開かれていた[3]
  2. ^ 当地(現在の富士本3丁目)の浅間神社は1877年(明治10年)の暴風で被災、再建されないまま境内は官有地となっていた[7]

出典

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  1. ^ 鳳林院について”. 自得山鳳林院. 2024年7月15日閲覧。 “鳳林院は江戸末期から明治初期にかけて寺小屋が開設され子弟の教場となっていた。明治5年(1872)学制が発布され、翌年この寺小屋は「里仁小学校」として発足、国分寺尋常小学校の西分教場となり、現在の第二小学校の元となった。”
  2. ^ 国分寺のおさんぽスポット 鳳林院”. 国分寺物語. 2024年7月15日閲覧。
  3. ^ 光商栄会 2008, pp. 109, 236, 「鳳林院にあった「寺子屋(里仁学舎)」について」.
  4. ^ 平成30年度 東京都公立学校一覧”. 東京都教育委員会. 2019年11月10日閲覧。
  5. ^ a b 光商栄会 2008, p. 109.
  6. ^ 光商栄会 2008, p. 114.
  7. ^ a b c 光商栄会 2008, p. 119.
  8. ^ 光商栄会 2011, pp. 122–125, 「浅間神社境内地にあった「里仁尋常小学校」について」.
  9. ^ 光商栄会 2008, p. 120.
  10. ^ a b 光商栄会 2008, p. 132.
  11. ^ 光商栄会, 2011 & 「「國分寺尋常高等小学校西分教場」について」, pp. 125–126.
  12. ^ 光商栄会 2008, p. 144.
  13. ^ a b 光商栄会 2008, p. 157.

関連項目

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参考文献

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  • 光商栄会・記念誌製作委員会 編『平兵衛新田 むかし・現在いま : 写真と歴史年表で知る光町』国立駅北口 光商栄会、2008年10月。  ※国立駅北口光商栄会創立30周年記念誌
  • 光商栄会・記念誌製作委員会 編『平兵衛新田 むかし・現在いま〈別巻 : 写真と資料集で辿る光町〉』国立駅北口 光商栄会、2011年11月。国立国会図書館書誌ID:023574325  ※国立駅北口光商栄会創立35周年記念誌。pp. 71-78に前著の正誤表あり。

外部リンク

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