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固倫和敬公主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
固倫和敬公主
続柄 乾隆帝第三皇女

出生 雍正9年5月24日(1731年6月28日)
死去 乾隆57年6月28日(1792年8月15日)
配偶者 セブタンバリジュル(色布騰巴勒珠爾)
子女 大格格
四格格
三格格
オルジェトムルエルキババイ
家名 愛新覚羅氏
父親 乾隆帝
母親 孝賢純皇后
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固倫和敬公主(こりんわけいこうしゅ、 雍正9年5月24日(1731年6月28日) - 乾隆57年6月28日(1792年8月15日))は、乾隆帝の娘。母は孝賢純皇后嘉慶帝の異母姉。

生涯

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宝親王弘曆(後の乾隆帝)とその嫡福晋(正室)富察氏(後の孝賢純皇后)の娘として生まれ、寧寿宮勤太妃によって育てられる。 富察氏は弘曆との間に他にも数人の皇子女を儲けていたが、和敬公主以外は皆夭逝した為、成人したのは和敬公主のみであった。

乾隆12年(1747年)3月、清の皇室と深い縁戚関係にあったホルチン部扎薩克和碩達爾漢親王家の当主セブタンバリジュル(色布騰巴勒珠爾)に降嫁するが、乾隆帝が愛娘が遠いモンゴルに行くのを嫌がった為、北京に屋敷を与えられ、夫婦ともどもそこに居住し、清の皇室から多大な経済援助を受けながら生活した。 二人の夫婦仲はとても良く、後の輔国公、オルジェトムルエルキババイ(鄂勒哲特穆爾額爾克巴拜)など少なくとも5人の子供がいたとされる。

乾隆57年(1792年)6月28日に62歳で亡くなり、北京の現在の朝陽区東壩鎮付近に夫とともに埋葬されたとされる。

子女

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脚注

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参考文献

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