団野記平治
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団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(安政元年8月17日[1])- 1923年(大正12年)12月3日[2][3])は、明治期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、兵庫県多紀郡城南村長。
経歴
[編集]丹波国多紀郡八上内村[4](兵庫県[2]多紀郡八上内村[3]、八上村[5]、篠山町、篠山市を経て現丹波篠山市八上内)で、中川儀十郎の二男として生まれた[3][4]。漢学、数学を修めた[2][3][5]。1879年(明治12年)同郡小枕村(城南村、丹南町、篠山市を経て現:丹波篠山市小枕)の素封家・団野仲右衛門の養子となり[3][4]、農業・酒造業を営む[2][3]。
酒造組合長、城南村農会長を務め[2][3][5]、村落の共有林の松を杉檜に植替えるなど造林の振興に貢献した[3][4]。
政界では学務委員、城南村会議員、学区組合会議員、郡組合会議員、多紀郡会議員、同副議長などを務めた[2][5]。1889年(明治22年)初代城南村長となり3期在任[4]。1894年(明治27年)兵庫県会議員に選出された[2][3][4][5]。
1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(兵庫県第3区)で初当選し[6]、第7回総選挙でも再選され[7]、衆議院議員に通算2期在任した[2][3][5]。政治活動により家産を傾け[4]、大阪に出て再起をはかったが[4]、思いを遂げることはできなかった[4]。
国政選挙歴
[編集]- 第3回衆議院議員総選挙(兵庫県第3区、1894年3月、無所属)落選[8]
- 第5回衆議院議員総選挙(兵庫県第3区、1898年3月、自由党)当選[6]
- 第6回衆議院議員総選挙(兵庫県第3区、1898年8月、憲政党)次点落選[6]
- 第7回衆議院議員総選挙(兵庫県郡部、1902年8月、立憲政友会)当選[7]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『兵庫県人物事典 下巻』のじぎく文庫、1968年。
- 松井拳堂『丹波人物志』臨川書店、1987年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。