四月法
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四月法 | |
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国・地域 | ハンガリー王国 |
形式 | 法律 |
日付 | 1848年4月11日 |
主な内容 | 近代化、議会民主主義、国民国家 |
四月法(しがつほう)あるいは三月法(さんがつほう)[1][2]は、ハンガリー王国を近代化して、議会民主主義、国民国家にすることを目的としてコシュート・ラヨシュにより制定された法律である。
命令的な要綱には、人民の国軍によるハンガリーの統制、国家予算、ハンガリーの対外政策、および農奴制の撤廃が含まれていた。法案は1848年3月に、ポジョニ(プレスブルグ、現在はスロバキアのブラチスラバ)の議会で可決され[3]、1848年4月11日に同市内のプリマティア宮殿でハンガリー国王フェルディナーンド5世(オーストリア皇帝フェルディナント1世)が署名した[4]。1848年に、新しい若いオーストリアの君主フランツ・ヨーゼフ1世は、法的な権限なしで任意に法律を取り消した。ハンガリーは、「アウスグライヒ(妥協)」成立まで対外的な自律性がなく、それが第一次世界大戦におけるハンガリーの立場に影響を与えた。1867年のオーストリア・ハンガリー帝国の妥協案の交渉中に、革命議会の四月法(9番目と10番目の点に基づく法律を除く)がフランツ・ヨーゼフ1世によって受け入れられた。
十二か条
[編集]→「1848年ハンガリー革命に於ける十二か条」も参照
保守派(大抵はほとんどの改革に反対していた)は、古い封建議会でかろうじて過半数すれすれを維持していて、改革派のリベラルはコシュート・ラヨシュとセーチェーニ・イシュトヴァーンの考えで分かれていた。しかし、選挙の直前に、フェレンツ・デアークが「十二か条」の共通政策の下で全てのリベラルの再統合に成功した。改革派のいわゆる「十二か条」は、四月法の支配的な原則になった。
- 報道の自由(弾劾と検閲官庁の廃止)
- 責任のある内閣(単純な王による大臣の任命の代わりに、大臣と政府は議会で任命、あるいは罷免されねばならない)
- 議会の年次開催(王に召集された、限られた目的の開催の代わりに)
- 法の下の市民的および宗教的平等(庶民と貴族を分ける法律の廃止。貴族の合法的な特権の廃止。緩和された寛容の代わりに完全な宗教の自由。(カトリック)国教の廃止)
- 国軍(ハンガリー国軍の創設。改革中、国軍は警察のように法と秩序を保った)
- 税負担の分担(貴族の免税廃止。貴族の税関と関税免除の廃止)
- ソケージ廃止(封建制廃止。農奴制と奴隷身分の廃止)
- 陪審員と代表者は平等に。(庶民が法廷の陪審員に選ばれることができ、所定の教育を受けていれば、行政や司法の最高レベルでも全ての人が役人になることができる)
- 国立銀行の設立
- 憲法支持を誓う軍隊、我々の兵士は海外に送られるべきではなく、外国の兵士は私たちの国を去るべきである。
- 政治犯の解放
- 連合(トランシルバニアと。オスマン帝国との戦争中に分離したハンガリー議会とトランシルヴァニア議会の再統合も含む)[5]
注釈
[編集]- ^ Britannica article on March laws
- ^ The April Laws on net.jogtar.hu (hungarian)
- ^ March Laws (Hungary [1848]) - Britannica Online Encyclopedia
- ^ “Between the campaigns of Napoleonic troops and the abolition of bondage”. City of Bratislava. 24 February 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。8 June 2007閲覧。
- ^ “március15”. marcius15.kormany.hu. 2017年9月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年3月16日閲覧。