茂山千作 (4世)
四世 茂山 千作(よんせい しげやま せんさく、大正8年(1919年)12月28日 [1]- 平成25年(2013年)5月23日[2])は、狂言大蔵流の狂言師、茂山千五郎家十二世当主(1966年 - 1994年)、人間国宝(重要無形文化財「狂言」各個認定保持者)、文化勲章受章者、文化功労者、日本芸術院会員。同じく、人間国宝(重要無形文化財「狂言」各個認定保持者)の二世茂山七五三は次男。
しげやま せんさく 茂山 千作 (四世) | |
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本名 | 茂山 七五三(しげやま しめ) |
別名義 |
十二世 茂山 千五郎 (じゅうにせい しげやま せんごろう) |
生年月日 | 1919年12月28日 |
没年月日 | 2013年5月23日(93歳没) |
出身地 | 大日本帝国・京都府(現在の 日本・京都府) |
職業 | 狂言方大蔵流能楽師 |
活動期間 | 1924年- 2013年 |
活動内容 |
1924年、以呂波にて初舞台 1966年、当主名の「茂山千五郎」を十二世として襲名する[1]。 1983年、芸術選奨文部大臣賞受賞、京都市文化功労者。 1985年、紫綬褒章受章 1989年、人間国宝に認定される[1] 1991年、日本芸術院会員となり、勲四等旭日小綬章受章[3]。1994年、四世茂山千作(隠居名)を襲名。同時に長男の正義が当主名の「茂山千五郎」を十三世として継承[1]。 1997年、京都府文化賞特別功労賞受賞 1998年、NHK放送文化賞受賞。 2000年、文化功労者。 2001年、朝日賞受賞。 2007年、狂言界で初の文化勲章を受章 |
配偶者 |
先妻・茂山幸子(1962年に死別) 後妻・茂山恵子(1963年に再婚) |
著名な家族 |
父:三世茂山千作(人間国宝・日本芸術院会員) 長男:五世茂山千作 次男:二世茂山七五三(人間国宝) 孫:十四世茂山千五郎 孫:茂山茂 孫:茂山宗彦 孫:茂山逸平 |
経歴
[編集]本名は茂山 七五三(しげやま しめ)[1]。1919年に父・茂山真一(十一世千五郎、三世千作)と母・スガの長男として生まれる[4]。正月に向けて七五三縄を飾る12月28日に誕生したことに因み、祖母から[要出典]七五三と名付けられた[5]。
1924年、「以呂波」で初舞台を踏む[1]。1923年生まれの弟の政次(二世茂山千之丞)とは幼少時から共演し、「豆狂言師コンビ」[6]と好評を博す[7]。
1926年に京都市立春日小学校に入学[4]、卒業後の1932年には京都市立美術工芸学校絵画科に入学するが、3年で中退した後は、狂言や謡・囃子に打ち込む[8]。1934年に「三番三」、1940年に「釣狐」を披く[4]。
戦時中召集され、1941年に舞鶴海兵団に入団し、「利根」に乗艦し真珠湾攻撃や南方作戦に従事するが[9]、翌年6月に下艦し人事部に移り、海軍人事部京都出張所に転勤[4]、京都で終戦を迎える。戦後舞台に復帰[1]。戦後の苦難の時代には、弟の千之丞とともに名古屋以西の各地の学校を巡回し、授業の一環として狂言を上演して普及に努めた[6][10][11]。
私生活では1944年に親戚である西陣の帯問屋の長女西村幸子と結婚[12]、1945年に長男の正義(五世千作)、1947年に次男の眞吾(二世七五三)が誕生している[4]。しかし、幸子は1962年、病気の手術後に死去[13]、死別の翌年の1963年に妹の高校時代の同級生であった高田恵子と結婚し[14]、1964年に三男の千三郎が誕生する[15]。
1954年の狂言様式による創作劇「東は東」(岩田豊雄作、武智鉄二演出)[16]に、唐人伍雲拙の役で出演[17]。1956年にはテレビドラマ「ひょう六とそばの花」[18]に出演[19]するなど、狂言以外の舞台やドラマでも活動する。1964年1月の日生劇場の寿大歌舞伎へ千之丞とともに「勧進帳」番卒役等で出演[20]。前月には出演に反対する能楽協会から退会勧告を受けたが、その後の狂言師らの多様な演劇活動への流れを作った[21]。
1966年1月15日、父の真一の「千作」襲名に伴い、当主名の「茂山千五郎」を十二世として襲名する[1]。襲名披露の狂言は「菓争(このみあらそい)」で、200年ぶりの復曲だった[15]。1972年には、初孫にあたる正義の長男正邦(十四世千五郎)が誕生。
1981年、「素袍落」の成果に対し、芸術祭の能楽部門大賞[22]。1983年、芸術選奨文部大臣賞受賞、京都市文化功労者。1985年、紫綬褒章受章。
1989年5月6日、父の三世千作(1986年死去)に続き、親子二代で人間国宝に認定される[1][23]。
1991年より日本芸術院会員、勲四等旭日小綬章受章[24]。
1994年7月18日、四世茂山千作(隠居名)を襲名し、同時に長男の正義が当主名の「茂山千五郎」を十三世として継承[1]。
1997年、京都府文化賞特別功労賞受賞。1998年、NHK放送文化賞受賞。2000年、文化功労者顕彰、朝日賞受賞。
晩年に至っても精力的に活動し、2006年からは弟の千之丞と共に兄弟会を開催、千之丞が2010年に死去するまで継続した[6][25]。
2007年、狂言界で初の文化勲章を受章[6]、京都市名誉市民[2]。
2009年には曾孫(正邦の息子)の竜正、虎真兄弟との四世代共演を果たした[26]。
2013年5月23日、肺がんのため京都市の自宅にて死去した。満93歳没[6]。没後従三位追贈[要出典]。
芸風
[編集]四世山本東次郎による弔辞において「天衣無縫、自由闊達。天性の喜劇役者だった」[27]と評されたように、伝統芸の基礎に立脚した自由自在の境地で知られた[28][29]。
幼少期から共に活動してきた弟の二世千之丞は、千作の芸は40歳頃からキャラクターがはっきりしてきて「理屈を離れて面白く」なり、後年言われるような「出てくるだけでも面白い」狂言になったと晩年に語っている[30]。また、野村万作には30代半ばで既に洒脱な芸だったと回顧されている[31]。
独特の低くややしわがれた声は、30歳頃、学校回りの狂言で酷使した喉にポリープができて声をつぶしてしまったことに起因するが、元の声は弟の千之丞よりも少し太い美声であった[32][33]。
祖父の二世千作、父の三世千作に師事しつつも、他家の初世善竹彌五郎の影響[34]等を受けながら、芸を重ねた。仕舞と謡は初世金剛巌に習い[35]、笛方森田流の杉市太郎に笛を習い、声が出ない数年間の間には笛方への転向を考えたこともあった[36]。
家族
[編集]子に、一人目の妻・幸子との間の長男・正義(五世千作)、次男・眞吾(二世七五三、人間国宝)[37]と、幸子との死別後再婚した妻・恵子との三男・千三郎(2020年末まで千五郎家で活動し、現在は独立[38])[4]。
孫に十四世茂山千五郎(茂山正邦)、茂山茂、茂山宗彦、茂山逸平(何れも幸子の孫)。
曾孫に茂山竜正、茂山虎真、茂山鳳仁、茂山蓮、茂山慶和。この他にも女性の曾孫(茂の娘)が2人いる(何れも幸子の曾孫)。
甥に茂山あきら。姪孫に 三世茂山千之丞(茂山童司)。
弟子
[編集]著書
[編集]- 『千五郎狂言咄』(講談社、1983年)
- 『京都の狂言師』(世界文化社、2004年)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 北口真理子 編『人間国宝 狂言師 茂山千作 : 千五郎時代の舞台と素顔』柳原書店、1994年、170-175頁。ISBN 4840930120。
- ^ a b “京都市名誉市民 茂山七五山(しげやま しめ)氏[四世 茂山千作]”. 京都市 (2019年2月20日). 2023年1月5日閲覧。
- ^ 「平成3年秋の叙勲 勲四等旭日小綬章を受けた狂言師・茂山千五郎さん」『読売新聞』1991年11月3日朝刊
- ^ a b c d e f 野村,土屋 2003, pp. 285–290
- ^ 宮辻 2013, p. 10
- ^ a b c d e “茂山千作さん死去 狂言師初の文化勲章受章”. 日本経済新聞 (2013年5月23日). 2024年4月20日閲覧。
- ^ 宮辻 2013, pp. 14–18
- ^ 宮辻 2013, pp. 41–42, 52
- ^ 宮辻 2013, pp. 72–73, 77–79
- ^ “茂山千作”. NHKアーカイブス. 2024年4月20日閲覧。
- ^ 宮辻 2013, pp. 140, 144
- ^ 宮辻 2013, p. 83
- ^ 宮辻 2013, pp. 177–178
- ^ 宮辻 2013, pp. 182
- ^ a b 宮辻 2013, pp. 194
- ^ 舞台中継―新橋演舞場― 狂言様式に依る創作劇「東は東」 - NHKクロニクル
- ^ 宮辻 2013, pp. 165, 170–172
- ^ “特集ドラマ ひょう六とそばの花”. NHK. 2024年4月20日閲覧。
- ^ 宮辻 2013, p. 199
- ^ “日生劇場 1964年01月”. 歌舞伎公演データベース. 2024年4月20日閲覧。
- ^ 宮辻 2013, p. 187-192
- ^ “文化庁芸術祭賞受賞一覧 昭和51年度(第31回)~昭和60年度(第40回)”. 2024年4月20日閲覧。
- ^ 2023年には次男の眞吾(二世七五三)も人間国宝に認定され親子三代での認定となった。
- ^ 「平成3年秋の叙勲 勲四等旭日小綬章を受けた狂言師・茂山千五郎さん」『読売新聞』1991年11月3日朝刊
- ^ “千作・千之丞の会 第5回”. 森崎事務所. 2024年4月20日閲覧。
- ^ “狂言・茂山家、4世代そろい踏み 年齢差なんと85歳”. 朝日新聞 (2009年6月13日). 2024年4月20日閲覧。
- ^ “人間国宝・茂山千作さんの葬儀/狂言界の至宝と最後の別れ”. 四国新聞社 (2013年5月27日). 2024年4月20日閲覧。
- ^ 油谷光雄 編『狂言ハンドブック』(改訂版)三省堂、2000年11月、91-92頁。
- ^ 羽田昶『昭和の能楽名人列伝』淡交社、2017年3月、264頁。ISBN 9784473041715。
- ^ 宮辻 2013, pp. 257–262
- ^ “天衣無縫の芸風 狂言師 茂山千作さん死去(27日、京都市左京区・金戒光明寺)”. 産経新聞社 (2013年5月28日). 2024年4月20日閲覧。
- ^ 宮辻 2013, pp. 152–156
- ^ 野村,土屋 2003, pp. 28–30
- ^ 野村,土屋 2003, pp. 43
- ^ 野村,土屋 2003, pp. 26–27
- ^ 宮辻 2013, pp. 153–155
- ^ “サラリーマンも経験した異色の経歴 人間国宝に狂言師・茂山七五三さん”. 産経新聞. (2023年7月21日) 2023年7月22日閲覧。
- ^ “本年末をもって千三郎が当家を離れます。”. お豆腐狂言 茂山千五郎家 (2020年12月17日). 2024年4月28日閲覧。
参考文献
[編集]- 野村萬斎、土屋恵一郎 編『狂言三人三様 茂山千作の巻』岩波書店、2003年。
- 茂山千作、茂山千之丞 著、宮辻政夫 編『狂言兄弟 千作・千之丞の八十七年』毎日新聞社、2013年5月30日。
関連項目
[編集]外部リンク
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