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善隣協会専門学校 (旧制)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
善隣高商から転送)
善隣協会専門学校
創立 1935年
所在地 東京市淀橋区
(現 東京都新宿区)
初代校長 井上璞
廃止 1950年
後身校 善隣大学
同窓会 善隣同窓会

善隣協会専門学校(ぜんりんきょうかいせんもんがっこう)は、1935年昭和10年)4月に設立された旧制専門学校

概要

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  • 内蒙古における "文化工作" (医療・教育援助など) を担った財団法人善隣協会によって、主に外地で活躍する人材を育てるために設立された。
  • 一時期、善隣高等商業学校 (善隣高商) と称したが、他の高等商業学校より語学教育に重点を置いていた。
  • 第二次世界大戦中、善隣外事専門学校に転換し、さらに戦後、善隣専門学校と改称した。
  • 新制善隣大学 (商学部貿易学科のみの単科大学) の前身校である。
  • 第二次世界大戦敗戦までは興亜院大東亜省から経費が支給されており、授業料は官立専門学校と同レベルだった。空襲で全施設を失い、戦後、国からの援助が無くなるや、学園は経営破綻した。

沿革

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  • 1933年 (昭和8年) 3月: 善隣協会の前身、日蒙協会の設立。初代理事長: 陸軍少将 依田四郎。
  • 同 11月: 善隣協会と改称。2代目理事長は 陸軍中将 井上璞 (後の専門学校初代校長)。
  • 1934年 (昭和9年) 1月: 財団法人 善隣協会となる。
  • 1935年 (昭和10年) 2月20日: 善隣協会専門学校 (修業年限3年、実業専門学校) の設立認可。
  • 同 4月: 開校。
    • 1学年の定員50名。厳選したため、第1期入学者は29名。
    • 本科のほか、内モンゴルからの留学生のために特別予科 (修業年限1年) を設置。
    • 第一外国語は支那語蒙語 (後に露語も) からの選択、第二外国語は英語・支那語・蒙語・露語・土語西語からの選択。
    • 1年生のみ全寮制とした (後に選択制に変更)。
  • 1939年 (昭和14年) 4月: 善隣高等商業学校と改称。
    • 定員150名に増員。
  • 1941年 (昭和16年) 10月: 修業年限を 3ヶ月短縮。
  • 1942年 (昭和17年) 4月: 修業年限をさらに 3ヶ月短縮。
  • 1944年 (昭和19年) 4月: 善隣外事専門学校と改称。
  • 1945年 (昭和20年) 4月: 空襲で善隣協会事務所・校舎焼失。
  • 1947年 (昭和22年) 4月: 善隣専門学校と改称。
    • 文科 (語学系) と経済科の 2科に改組。
    • 新制大学への移行問題勃発。経済的負担の少ない商学部単科での移行を主張する理事会側と、語学科・経済科両方の移行を主張する教授会側とで対立。
  • 1948年 (昭和23年) 5月: 理事会、商学部単科での新制大学移行を決定。
  • 1949年 (昭和24年) 4月: 新制善隣大学発足。
    • 商学部貿易学科のみ。定員80名に対し、入学者 40数名。
    • 善隣大学はまもなく日本商科大学と改称。
  • 1950年 (昭和25年): 日本商科大学・善隣専門学校ともに廃校。
    • 新制の学生は明治学院大学に、旧制在校生は明治学院専門部に引き継がれた。

歴代校長

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旧制時代
  • 初代: 井上璞 (1935年4月 - 1940年2月) 陸軍中将
  • 第2代: 大嶋豊 (1940年2月 - 1946年)
公職追放に遭い、学園再建に携わることができなくなった。後に東洋大学理事長・学長。
1950年の善隣学園の廃校後も、何度か再興を試みたが果たせず、1978年12月死去。
  • 校長事務取扱: 本荘可宗 (1946年 - )
  • 校長事務取扱: 森戸辰男 ( - 1947年6月)
文部大臣に就任のため辞任。
  • 校長事務取扱: 北浦藤郎 (1947年6月 - )
  • 理事:野副金次郎
新制時代

校地

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東京市淀橋区西大久保4丁目170番地の39 (当時)。陸軍戸山ヶ原演習場に隣接し、現在の保善高等学校の付近に位置した。校地は狭く、陸軍演習場を運動場として借用することにより、学校の設立許可を得たという (校長が軍人のため借用許可が得られた)。1945年4月の空襲で焼失し、隣接する東京植民貿易語学校、東京保善商業学校 (現 保善高等学校) の校舎を間借り[1]
川崎市溝ノ口の陸軍 東部62部隊跡。兵舎跡などを整備して使用。現在の川崎市高津区梶ケ谷1丁目の虎ノ門病院分院付近。まだ東急田園都市線が存在しない時代で、最寄りの駅は南武線武蔵溝ノ口駅。交通の不便なことが、学園の死期を早めた。
日本商科大学と善隣専門学校の廃校後は明治学院の施設(大学学生寮および中学校の職業家庭科分教場)として1955年まで使用された[2]

脚注

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  1. ^ 東京植民貿易語学校も戦前は善隣協会の所管だったこともあり関係が深かった(詳細→保善高等学校の沿革を参照)。
  2. ^ 武藤富男「明治学院九十年史」『学院史』、明治学院、1967年、278-279頁。 

関連書籍

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  • 善隣会編『善隣協会史 -内蒙古における文化活動-』(1981年7月)
  • 善隣同窓会学園史編集委員会編『善隣学園史物語』(1985年6月)

関連項目

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