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善世豊永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
善世豊永
時代 平安時代初期
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位下伊豆守
主君 仁明天皇文徳天皇
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善世 豊永(よしよ の とよなが)は、平安時代初期の貴族氏姓は掃守連のち善世宿禰。官位従五位下伊豆守

出自

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掃守氏(掃守連)は宮中の掃除・鋪設に携わった職業部である掃守部(掃部)の総領的伴造[1]天忍人命の後裔とされる天孫系氏族[2]は造のち連で、八色の姓の制定により宿禰姓に改めた氏人もある。なお、豊永以前の善世宿禰姓の氏人として遠継(淳和朝仁明朝)がいる[3]河内国高安郡掃守郷を本拠地とした。

経歴

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右少史在職中の承和2年(835年)一族の豊上らと共に掃守連から善世宿禰に改姓し、翌承和3年(836年)本拠を河内から改め右京四条二坊に貫附される。承和8年(841年朔旦冬至に行われた叙位にて従五位下に叙せられ、翌承和9年(842年出雲介に任ぜられる。

文徳朝では仁寿元年(851年大炊頭、斉衡3年(856年造酒正と宮中の飲食に関わる京官を歴任し、この間の斉衡2年(855年)に内位の従五位下に叙せられている。文徳朝末の斉衡4年(857年)正月に一旦長門守に任ぜられるが、2月には右京亮に異動となり、結局同年9月には伊豆守に任ぜられ地方官に転じた。

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 太田[1963: 1603]
  2. ^ 『続日本後紀』承和2年2月13日条
  3. ^ 『日本後紀』天長8年正月4日条,『続日本後紀』承和2年5月10日条

参考文献

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