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商琥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

商 琥(しょう こ、? - 1293年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は台符。クビライに仕え京兆地方の経営に尽力した商挺の息子の一人。

略歴

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至元14年(1277年)、姚枢許衡の推薦を受け、江南行御史台監察御史の地位を拝命した。このころ、建康に駐屯する兵で裕福な湯氏の家に乗り込み誣告して財物を奪おうとする事件が起きたため、商琥がその冤罪の罪を晴らし誣告した者を罰したという逸話が伝えられている。また華亭蟠龍寺の僧の思月が謀叛を企んで捕縛されたが、その残党が火を放って混乱をもたらしたため、すみやかにその首魁を誅殺した。後に、文法吏が商琥の判断を拙速である批判したが、行台中丞の張雄飛が慣例に従っていては対処できなかったであろうと弁護したため、商琥への批判は立ち消えとなった[1]

至元27年(1290年)、中台監察御史の地位を拝命した。このころ、「国の道を為すは、立法・任人の2者にのみあります」と述べて天下の名士10人余りを推挙し、みな召し抱えられたという。至元30年(1293年)、国子司業の地位に移ったが、まもなく亡くなった[2]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻159列伝第46商琥伝,「琥字台符。至元十四年、以姚枢・許衡薦、拝江南行御史台監察御史。建康戍卒有利湯氏財者、投戈于其家、誣為反具。琥知其冤、罪誣者而釈之。華亭蟠龍寺僧思月謀叛被擒、其党縦火来劫、民大擾、琥亟誅其魁。文法吏責琥擅誅、行台中丞張雄飛曰『江南残毀之餘、盗賊屡起、顧尚循常例、安用憲台為哉』。吏議遂屈。都昌妖賊杜万一、潜号倡乱、行台檄琥按問。械繋脅従者盈獄、琥悉以詿誤縦遣之。党与竄伏者猶衆、琥掲牓招来、不三日雲集」
  2. ^ 『元史』巻159列伝第46商琥伝,「二十七年、徴拝中台監察御史。属地震、琥上書言『昔漢文帝有此異、而無其応、蓋以躬行徳化而弭也』。因条陳漢文時政以進。又言『為国之道、在立法・任人二者而已。法不徒立、須人而行、人不濫用、惟賢是択』。因挙天下名士十餘人。帝従之、皆召用、待以不次。三十年、遷国子司業。卒。有彝斎文集」

参考文献

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  • 元史』巻159列伝第46商琥伝
  • 新元史』巻158列伝第55商琥伝
  • 松田孝一「元朝期の分封制 : 安西王の事例を中心として」『史學雜誌』88号、1979年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年