唐崎彦明
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳4年(1714年) |
死没 | 宝暦8年4月22日(1758年5月28日) |
改名 | 乙七、万助、多内、金五郎、金四郎 |
別名 | 広陵 |
墓所 | 竹原長生寺 |
主君 | 増山正武、正贇 |
藩 | 伊勢長島藩 |
氏族 | 唐崎氏 |
父母 | 唐崎清継、吉井氏 |
兄弟 | 唐崎信通、信順、信利 |
妻 | 赤井弥太夫妹 |
子 | 唐崎士愛 |
唐崎 彦明(からさき げんめい)は江戸時代の儒学者。号は広陵。安芸国礒宮八幡神社社家出身でありながら神道を好まず、三宅尚斎に儒学を学び、伊勢長島藩に仕えた。
生涯
[編集]安芸国賀茂郡礒宮八幡神社唐崎清継の四男として生まれた[1]。幼名は乙之助[1]、乙七、万助、多内、金五郎、金四郎[2]、欽四郎[1]。2歳で父清継を喪い、兄唐崎信通に養育され、郷儒山中半斎に書を学んだ[1]。7,8歳で信通・半斎に句読を学び、9歳で初めて漢詩「梅霖」を作り、「送梅漠々自寥々。林下間居無友僚。独坐読書忘日永。臥聞門外水声喧。」と詠んだ[1]。10歳で郷儒塩谷道碩に書を学び、親族に医者になることを勧められるも、従わなかった[1]。
18歳で京都に留学し、松岡仲良に若林強斎流儒学を学んだ[1]。仲良が神道色を強めると、三宅尚斎の門に移り、富小路通二条に住んで宇野明霞に詩文を学んだ[1]。なおこの間、神道家である信通が思想の違いをこえて学資を援助し続けた[1]。寛保3年(1743年)江戸麹町に塾を構えた[1]。
延享元年(1744年)10月11日伊勢長島藩に教授として招かれ、延享2年(1745年)3月参勤交代に従い、延享3年(1746年)7月参政となった[1]。延享4年(1747年)6月1日信通の訃報により帰郷した[1]。
寛延3年(1750年)11月藩と対立して辞職し[3]、江戸に3年間滞在した後、帰郷した[1]。宝暦8年(1758年)4月22日45歳で病没した[1]。墓所は竹原長生寺[4]。
著作
[編集]親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 坂本 1906, pp. 225–227.
- ^ a b c d 顕彰会 2010, p. 157.
- ^ 神職会 1931, p. 61.
- ^ 顕彰会 2010, p. 370.
- ^ “敬斎箴講義”. 日本古典籍データベース. 国文学研究資料館. 2017年5月6日閲覧。
- ^ “講学編”. 日本古典籍データベース. 国文学研究資料館. 2017年5月6日閲覧。
- ^ “拘幽操口義”. 日本古典籍データベース. 国文学研究資料館. 2017年5月6日閲覧。
- ^ “拘幽操講筆”. 日本古典籍データベース. 国文学研究資料館. 2017年5月6日閲覧。
- ^ “広陵筆録”. 日本古典籍データベース. 国文学研究資料館. 2017年5月6日閲覧。
- ^ “詩則編”. 日本古典籍データベース. 国文学研究資料館. 2017年5月6日閲覧。
- ^ “諸先輩講学紀聞”. 日本古典籍データベース. 国文学研究資料館. 2017年5月6日閲覧。
- ^ “竹原遺稿”. 日本古典籍データベース. 国文学研究資料館. 2017年5月6日閲覧。
- ^ “読叛門論”. 日本古典籍データベース. 国文学研究資料館. 2017年5月6日閲覧。
- ^ “物学弁証”. 日本古典籍データベース. 国文学研究資料館. 2017年5月6日閲覧。
- ^ “弁道断論”. 日本古典籍データベース. 国文学研究資料館. 2017年5月6日閲覧。
参考文献
[編集]- 坂本辰之助『血と涙の人』警醒社、1906年。NDLJP:781641/136
- 広島県神職会『芸備祀職三忠士伝』広島県神職会、1931年1月。NDLJP:1023649/36
- 唐崎常陸介士愛顕彰会『唐崎常陸介資料集』 上、市立竹原書院図書館、2010年。
- 菅脩二郎「唐崎常陸介略年表」『唐崎常陸介資料集』 上、市立竹原書院図書館、2010年。