咸豊黄河大改道
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咸豊黄河大改道の図 | |
日付 | 1855年8月1日—1884年 |
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場所 | 黄河の両岸、特に山東省 |
咸豊黄河大改道(中国語: 咸丰黄河大改道)は、1855年8月1日[1](咸豊5年6月)[2]に発生した河道変動。黄河は河南省蘭考県銅瓦廂で決壊したことで河道を変え、北へ向かい、長垣市、東明県から張秋鎮に至り[3]、済水(山東省での通称は大清河)の流れを奪い、山東省で海へ注ぎ込むようになり、現在に至っている。
咸豊黄河大改道は紀元前602年以降の26回目となる黄河の河道変動であり、現代に最も近い黄河の河道の大きな転換でもある。河道変動後の河川トラブルは深刻であった[4]。今回の河道変動は、山東省を中心に両岸の人々に大きな損害を与えた。1884年(光緒10年)までに山東の黄河堤防が全面的に完成するも、その後も黄河は氾濫した。但し、常時山東省から海へ注ぎ込む流れは変わらなかった[5]。
背景
[編集]黄河が淮河の流路を奪ってから明代の潘季馴まで4度の治水工事を行い、黄河の河道は300年余り明清故道に固定されていた。現在の行政区分でいえば、黄河は河南省、山東省南部、安徽省北部を通り、江蘇省北部で黄海に注いでいた[6]。
処理
[編集]黄河の水害は清政府の経済に打撃を与えたが、当時の清政府は太平天国の乱と捻軍の蜂起に全力で対処していた[7]。その為、軍には黄河を修復する余裕は無かった。南河総督である楊以増は、清朝に決壊箇所の工事の延期を上奏した[8]。
影響
[編集]今回の黄河の流路変更後、江蘇省北部の町は黄河の氾濫から解放された。しかし、山東省における黄河の氾濫はより頻繁で深刻となった[9]。結果として、斉東県に代表される山東省の済水両岸の町は衰退した[10]。
参考
[編集]参考文献
[編集]- ^ 清史研究. 中国人民大学书报资料中心. (1995). pp. 45-. オリジナルの2020-12-02時点におけるアーカイブ。 2020年5月7日閲覧。
- ^ 《清史稿·卷二十·本纪二十》(咸丰)五年......六月......丙辰,河南兰阳,河溢......九月......癸酉,发内帑十万两续赈直隶、山东灾民......
- ^ 《清史稿·志一百一》○河渠一△黄河
- ^ 近代中国的政治和社会(1840-1949). 中国人民大学出版社. (1999). pp. 83-. オリジナルの2020-12-02時点におけるアーカイブ。 2020年5月7日閲覧。
- ^ 《黄河水利史述要》编写组 (2003). 黄河水利史述要. 黄河水利出版社. オリジナルの2020-12-02時点におけるアーカイブ。 2020年5月7日閲覧。
- ^ 钟山. 江苏人民出版社. (2009). pp. 188-. オリジナルの2020-12-02時点におけるアーカイブ。 2020年5月7日閲覧。
- ^ 叶青超 (1990). 黄河下游河流地貌. 科学出版社. pp. 50-. オリジナルの2020-12-02時点におけるアーカイブ。 2020年5月7日閲覧。
- ^ 黄河大事记. 黄河水利出版社. (2001). pp. 121-. オリジナルの2020-12-02時点におけるアーカイブ。 2020年5月7日閲覧。
- ^ 山东史志资料. 山东人民出版社. (1982). pp. 170-. オリジナルの2020-12-02時点におけるアーカイブ。 2020年5月7日閲覧。
- ^ “邹平记忆:湮没在黄河下的齐东古城·六百年繁华尽收河底”. 滨州网 (2018年6月17日). 2020年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月7日閲覧。