和裕皇貴妃
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和裕皇貴妃(わゆうこうきひ、乾隆26年1月21日(1761年2月25日) - 道光13年12月18日(1834年1月27日))は、清の嘉慶帝の側妃。姓は劉佳氏。父は劉福明。
はじめ、乾隆帝の第15皇子永琰(後の嘉慶帝)の府邸に入り、格格(側女)となったとされる。
乾隆44年12月29日、永琰の長男を産むが、翌年夭逝した。
乾隆46年、永琰の三女荘敬和碩公主を産む。
嘉慶元年(1796年)、嘉慶帝の即位すると諴妃に冊立され、皇后喜塔臘氏と貴妃鈕鈷禄氏に次ぐ第三位の后妃となった。
嘉慶6年 (1801年) 、荘敬和碩公主がモンゴル王公サドナンドルジに降嫁する。
嘉慶13年(1808年)諴貴妃に晋封される。
嘉慶25年(1820年)、嘉慶帝が崩御し、道光帝が即位すると、諴貴妃の夭逝した長男は「穆郡王」に追封された。また同年、道光帝により諴貴妃自身も皇考諴禧皇貴太妃に尊封された。
道光13年(1833年)、諴禧皇貴太妃は逝去し、昌陵の妃園寢に葬され、「和裕皇貴妃」の諡号が贈られた。
子女
[編集]- 皇長子:穆郡王(夭逝)
- 皇三女:荘敬和碩公主
伝記資料
[編集]- 『清史稿』