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和多田勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
笑福亭しょうふくてい つる
和多田わただ まさる
笑福亭(しょうふくてい) 小(こ)つる 和多田(わただ) 勝(まさる)
五枚笹は、笑福亭一門の定紋である。
本名 和多田わただ まさる
生年月日 1942年1月20日
没年月日 (1994-01-31) 1994年1月31日(52歳没)
出身地 日本の旗 日本大阪府大阪市
師匠 5代目笑福亭松鶴
名跡 1. 笑福亭小つる(1947年 - 1957年)
2. 和多田勝(1957年 - 1994年)
活動期間 落語家(1947年 - 1957年)
エッセイスト・イラストレーター(1970年 - 1994年)
家族 5代目笑福亭松鶴(祖父)
備考
上方落語協会会員(1957年入会、同年退会)
「戎松日曜会」。後列右が六代目松鶴(当時は光鶴あるいは枝鶴)。左に三代目米之助五代目文枝(当時あやめ)旭堂南陵(当時二代目小南陵)。子供は和多田勝(当時小つる)

和多田 勝(わただ まさる、1942年1月20日 - 1994年1月31日)は、上方噺家エッセイストイラストレータータレント。芸名は笑福亭小つる(しょうふくてい こつる)。5代目笑福亭松鶴の孫(娘の子)で、6代目松鶴の甥にあたる。

来歴

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1955年正月、「宝塚若手落語会」
前列の子供。笑福亭小つる時代の和多田勝[1]

大阪市に生まれ、生家は呉服屋、子供の頃から祖父・5代目松鶴に連れられ寄席通いをした。1947年7月に正式に5代目松鶴に入門し「笑福亭小つる」を名乗り、翌年1月に大阪市今里の双葉館で初舞台を踏む。小唄寄席踊りで高座を勤め人気者になる。中学校卒業頃まで高座を勤め、大阪市立工芸高等学校を入学と同時にいったん廃業し学業に専念。

高校の美術油絵科を卒業後の1963年、そごう宣伝部に就職し、1970年まで勤める[2]。そごう退社後は本名の「和多田勝」名義でエッセイスト・イラストレーターに転業[2]。落語関係の著書や落語のレコードの挿絵や落語速記本の挿絵などを書いたり、落語・演芸の解説をしたり、テレビやラジオ出演して活躍する。

1983年に秋田實賞を受賞[2]

1994年1月31日に膵臓癌で死去。

著書

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脚注

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  1. ^ 前列左より桂春坊(二代目露の五郎兵衛)笑福亭松之助、橘家圓二郎、四代目桂文枝三代目桂米朝、笑福亭小つる(和多田勝)、三代目桂米之助。後列左より見浪よし(五代目笑福亭松鶴夫人)、桂あやめ(五代目桂文枝)旭堂小南陵(三代目旭堂南陵)六代目桂小文吾、桂麦團治、奥野しげる(宝塚若手落語会世話人)。(桂米朝『桂米朝 私の履歴書』日経ビジネス人文庫、2007年、p.93)
  2. ^ a b c 戸田学 編『六世笑福亭松鶴はなし』岩波書店、2004年、90-91(§3「桂文枝師に聞く」の和多田についての注釈)頁。ISBN 4-00-002586-4 

関連項目

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  • 横山信治 - 6代目松鶴に12歳で弟子入りし「笑福亭手遊(おもちゃ)」の高座名で、中学時代まで落語を演じた。

外部リンク

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