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和仁親実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
和仁親実
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 天正15年(1587年
官位 丹波守、勘解由
主君 肥後菊池氏大友宗麟龍造寺氏島津義久豊臣秀吉
氏族 和仁氏
父母 父:和仁親続
兄弟 親実小野久右衛門統実[注釈 1]親範親宗、女(辺春親行室)
小野成実[注釈 2]、女[注釈 3]
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和仁 親実(わに ちかざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将肥後国田中城主。

略歴

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和仁氏は古代豪族である和珥氏の末裔とされる肥後の国人。領地は150町(1500石程)。当初は肥後菊池氏に属したが、菊池氏の没落後は大友氏に従属した。

天正12年(1584年)、龍造寺氏の支援を受けた田尻氏の攻撃を受けて居城を失うが、同年内に島津氏の支援を受けて奪回している。

天正15年(1587年)、親実は隈部親永の起こした肥後国人一揆に同調して、田中城に弟の親範親宗・妹婿の辺春親行らと900余の兵で籠城する。佐々成政の求めに応じた小早川秀包を主将とした、安国寺恵瓊鍋島直茂立花宗茂筑紫広門など九州四国勢の援軍10000に包囲されるが、2ヶ月の間、持ち堪えた。しかし、親実は安国寺恵瓊の調略による家臣の裏切り(辺春親行が親実を斬ったとも)に遭い討ち死にを遂げた。弟らも奮戦したが、秀吉の命令によって小早川勢による撫で斬りが行われ、田中城は落城。和仁氏は滅亡した。

脚注

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注釈

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  1. ^ 親続の次男、十郎三郎、式部少輔、号自休。立花道雪立花宗茂の家臣。小野鎮幸の養弟。(柳河藩享保八年藩士系図・下 P.42、P.43)
  2. ^ 親実の弟・小野久右衛門統実の養子、太郎、作左衛門、号常休。立花宗茂の家臣。(柳河藩享保八年藩士系図・下 P.42、P.43、P.45)
  3. ^ 城平右衛門室、成実姊。(柳河藩享保八年藩士系図・下 P.42、P.43、P.45)

出典

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参考文献

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  • 西ケ谷恭弘編『国別 戦国大名城郭事典』(東京堂出版、1999年)
  • 『和仁軍談』(『肥後古記集覧』巻七 編 新熊本市史編纂委員会、熊本市、2000年)