周震鱗
周震鱗 | |
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『最新支那要人伝』1941年 | |
プロフィール | |
出生: | 1875年(光緒元年) |
死去: |
1964年 中国北京市 |
出身地: | 清湖南省長沙府寧郷県 |
職業: | 革命家・政治家・教育者・書家 |
各種表記 | |
繁体字: | 周震鱗 |
簡体字: | 周震鳞 |
拼音: | Zhōu Zhènlín |
ラテン字: | Chou Chen-lin |
和名表記: | しゅう しんりん |
発音転記: | ジョウ ジェンリン |
周 震鱗(しゅう しんりん)は清末・中華民国の革命家・政治家・教育者・書家。華興会結成メンバーの1人で、中国同盟会にも参加した。古参の革命派人士として、後に中国国民党にも加入している。字は道腴。
事跡
[編集]19歳で秀才となり、1897年(光緒23年)に両湖書院へ入学する。卒業後、湖南高等学堂監督となり、後に教務長となった。1903年(光緒29年)、長沙明徳学堂で教鞭をとる。同年11月、黄興・劉揆一・章士釗らと華興会を結成した。1905年(光緒31年)8月には、中国同盟会にも加入している。以後、安徽省や北京で教鞭をとる傍ら、革命活動に従事した。
辛亥革命直前には上海の同盟会中部支部により長沙へ派遣され、蜂起計画に参加した。中華民国成立後は、湖南省籌餉局局長兼軍務幇弁に任ぜられている。1913年(民国2年)、参議院議員に選出された。1917年(民国6年)、孫文(孫中山)が護法運動を開始すると、周震鱗もこれに合流し、9月に大元帥府参議に任ぜられている。
1921年(民国10年)、中国国民党広東支部総務部部長兼湖南駐粤代表に任ぜられた。1927年(民国16年)9月からは、南京の国民政府で委員となる。翌年、国民革命軍が北伐により北京を攻略すると、周震鱗は北京に赴いて、大総統府・国務院など各政府機関の接収事務を担当した。同年10月、周震鱗は立法院立法委員に任ぜられ、後に、北平民国大学校長も務めた。なお、周震鱗は書道に堪能であり、特に篆書に優れたという。
1932年(民国21年)2月、監察院熱察綏区監察使となる。翌年2月、国民政府委員に復帰した。1944年(民国33年)7月、国民政府顧問となり、その翌年5月には国民党第6期中央監察委員に選出されている。1949年(民国38年)8月、湖南省で程潜・陳明仁らが中国共産党側に転じる起義を行うと、周震鱗もこれに従った。中華人民共和国成立後、周震鱗は北京に寓居している。
1964年、北京で病没。享年90。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。