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呂煥炎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
呂煥炎
プロフィール
出生: 1892年光緒18年)
死去: 1930年民国19年)6月15日
中華民国の旗 中華民国広東省広州市
出身地: 清の旗 広西省鬱林州陸川県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 呂煥炎
簡体字 吕焕炎
拼音 Lǚ Huànyán
ラテン字 Lü Huan-yen
和名表記: りょ かんえん
発音転記: リュー フアンイエン
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呂 煥炎(りょ かんえん)は中華民国の軍人。国民政府国民革命軍)、新広西派(新桂系)に属した。光奎

事跡

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広西陸軍小学、陸軍第2予備学校を卒業。1915年民国4年)夏、保定陸軍軍官学校第3期砲兵科に入学する。このとき、黄紹竑白崇禧夏威と同期となった。翌年冬に卒業し、以後、広西軍(桂軍)で経歴を重ねていった。

1924年(民国13年)、呂煥炎は、李宗仁率いる討賊聯軍(後の広西陸軍第2軍)に加わり、第5縦隊司令に任命された。翌年から李による広西統一戦に参加する。呂は沈鴻英鄧本殷らの撃破に貢献して、広西辺防対汛督弁に任じられた。

1926年(民国15年)春、李宗仁の部隊が国民革命軍第7軍に改組されると、呂煥炎は第7軍第9旅旅長に任じられている。7月に李らが北伐へ出撃すると、呂は広西の留守を担当した。1927年(民国16年)、第7軍第7師師長に昇進する。同年11月、広東省蔣介石李済深に反旗を翻した張発奎黄琪翔の討伐に加わった。1928年(民国17年)6月、国民革命軍の再編に伴い、第15軍第45師師長に任じられ、翌年3月、新広西派の軍縮に伴い、第8路第4師旅長となった。

同年夏、呂煥炎は李宗仁らの反蔣戦争の一端として広東省へ出撃したが、粤軍(広東軍)に敗北して広西省へ退却した。その頃、兪作柏が李宗仁らを駆逐して広西省政府主席に就任している。呂は兪と交渉して、警備軍副司令兼第1師師長(後に、国民革命軍新編第16師師長)に任じられた。9月、兪が汪兆銘(汪精衛)らと結んで反蔣介石を宣言すると、呂は蔣からの篭絡・買収を受けたためこれに追随せず、他の親蔣派将領とともに兪を追放した。

10月、呂煥炎は兪作柏の後任として広西省政府主席兼討逆軍第8路副総指揮に任じられた。しかし、呂は資歴が浅かったために省内の各軍を統率できなかった。結局、11月に、香港へ逃れていた李宗仁、白崇禧、黄紹竑を指導者として改めて迎え入れざるを得なかった。復権した李は、反蔣介石のための護党救国軍総司令を称し、呂は第8路軍第1縦隊指揮官に任ぜられた。1930年(民国19年)1月、呂は再び親蔣を宣言して、李らに反旗を翻したが、黄の迅速な反撃に敗北、逃走した。

同年6月15日、呂煥炎は逃亡先の広州において、部下の衛兵に暗殺された。享年39。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 莫済杰・陳福林主編『新桂系史 第1巻』広西人民出版社、1991年。ISBN 7-219-01885-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
兪作柏
広西省政府主席
1929年10月 - 1930年6月
次代
黄紹竑
(広西善後督弁)