呂春錫
呂春錫 려춘석 | |
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生年月日 | 1931年7月10日 |
出生地 | 日本統治下朝鮮平安北道定州市 |
没年月日 | 2018年8月26日 (87歳没) |
出身校 | 金日成軍事総合大学 |
所属政党 | 朝鮮労働党 |
最高人民会議代議員 | |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1982年2月 - 2014年3月 |
最高指導者 |
金日成(1948年 - 1994年) 金正日(1994年 - 2011年) 金正恩(2011年 - ) |
在任期間 | 2010年9月 - 不明 |
在任期間 | 2008年2月 - 2013年7月 |
人民武力部副部長 | |
在任期間 | 1997年11月 - 不明 |
朝鮮労働党中央委員会委員候補 | |
在任期間 | 1980年10月 - 2010年9月 |
呂春錫 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 려춘석 |
漢字: | 呂春錫 |
発音: | リョ・チュンソク |
英語表記: | Ryo Chun-sok |
呂 春錫(リョ・チュンソク、朝鮮語: 려춘석、1931年7月10日 - 2018年8月26日)は、朝鮮民主主義人民共和国の軍人、政治家。金日成軍事総合大学総長、朝鮮労働党中央委員会委員、人民武力部副部長などを歴任。朝鮮人民軍における軍事称号(階級)は大将。金正日総書記から「作戦通」と評価され、信頼が厚かった[1]。
経歴
[編集]1931年[2]に日本統治下の平安北道定州市で生まれた[3]。1948年に中国人民解放軍に入隊し[1]、1950年に朝鮮人民軍に編入された[1]。その後金日成軍事総合大学を卒業[3]。1975年に少将に昇進し、第5軍団参謀長に就任した。1980年11月に朝鮮労働党中央委員会委員候補に選出され、1982年2月に最高人民会議第7期代議員に選出された[3]。1984年に中将に昇進し[3]、第4軍団長に就任した[3]。1992年に上将に昇進し[3]、1994年に第7軍団長[3]、1997年に人民武力部副部長に就任した[3]。1998年に人民武力省に改編されたことに伴い、人民武力副相となる[3]。2000年に人民武力部に戻されたことに伴い、人民武力部副部長となった[3]。2002年に大将に昇進した[3]。2003年10月28日に訪朝した、ハルトムート・コシュクドイツ連邦議員と会談した[4]。2008年に金日成軍事総合大学総長に就任していたことが確認され[3][1]、2010年9月28日に開催された朝鮮労働党第3回党代表者会で、朝鮮労働党中央委員会委員に選出された[3][5]。最後の職位は党中央委員会副部長であった[2]。
2024年9月21日に訃報が発表されたが[6]、愛国烈士陵の墓石の画像によると2018年8月26日に亡くなった[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 北 김일성군사종합대학 총장에 려춘석 임명 統一ニュース 2008年2月4日
- ^ a b c “More Remains of Martyrs Buried at Patriotic Martyrs Cemetery in DPRK” (英語). KCNA Watch. 2024年9月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 려춘석 呂春錫북한지역정보넷
- ^ 北朝鮮訪問の独議員「北朝鮮、核施設の凍結を示唆」 中央日報 2003年11月3日
- ^ 北노동당 중앙위원 및 후보위원 명단 聯合ニュース 2010年9月29日
- ^ “More Remains of Martyrs Buried at Patriotic Martyrs Cemetery in DPRK” (英語). KCNA Watch (2024年9月21日). 2024年9月21日閲覧。
参考サイト
[編集] 朝鮮民主主義人民共和国
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