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向忠発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
向忠発
プロフィール
出生: 1880年光緒6年)
死去: 1931年民国20年)6月24日
中華民国の旗 中華民国上海市
出身地: 清の旗 湖北省漢陽府漢川県
職業: 革命家
各種表記
繁体字 向忠發
簡体字 向忠发
拼音 Xiàng Zhōngfā
ラテン字 Hsiang Chung-fa
和名表記: こう ちゅうはつ
発音転記: シャン ヂョンファー
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向 忠発(こう ちゅうはつ)は中華民国の革命家。名は仲発だが、筆名の忠発で知られる。仮名は楊特生などがある。

事跡

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青年時代は漢陽の軍需工場で学徒として働き、後に漢陽造幣廠で勤務した。後に埠頭人夫などにもなっている。1922年民国11年)、中国共産党に加入し、湖北省の工会(労働組合)で活動した。後に漢冶萍公司総工会副委員長を務めている。

1926年(民国15年)、向忠発は、中共湖北区執行委員会委員となる。また、国共合作に伴い、中国国民党漢口市党部工人部部長も兼任した。このほかにも、武漢工人糾察隊総指揮、武漢工会委員長、中華全国総工会執行委員会委員なども務めている。翌1927年(民国16年)、武漢国民政府人民裁判委員会委員に任ぜられた。同年、共産党の第5回全国代表大会で中央委員に当選し、八七会議では臨時中央政治局委員に選出されている。まもなくソビエト連邦に赴き、中国共産党駐コミンテルン代表に任ぜられた。

1928年(民国17年)2月、向忠発はコミンテルン執行委員会第9回拡大全体会議に出席し、コミンテルン執行委員会委員・主席団委員に選出された。さらにモスクワで開かれた中国共産党第6回全国代表大会で向は中央委員に再選され、6期1中全会で中央政治局常務委員・中央総書記に抜擢される。しかし、向は中央宣伝部長李立三の傀儡に過ぎず、実権は李が握り、いわゆる「李立三コース」が推進された。

1931年(民国20年)初頭に李立三が失脚した頃、向忠発は帰国した。しかし6月22日、上海で国民政府により逮捕され、24日、銃殺刑に処された。享年52。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 齋藤剛『支那-機構と人物』太陽閣、1937年。 
  中国共産党
先代
瞿秋白
中央委員会総書記
1928年 - 1931年
次代
王明