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向五子王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

向 五子王[1](きょう ごしおう、生年不詳 - 566年)は、西魏北周に反抗した少数民族の首長。

経歴

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信州の少数民族の首長となった。555年恭帝2年)、向白彪らとともに西魏に反抗し、信州の州城である白帝城を包囲して陥落させた。西魏の金州刺史賀若敦直州刺史の李遷哲らの攻撃を受けて敗れ、白帝城を奪回された[2]

北周の武成年間、五子王は冉令賢らとともに北周に反抗して蜂起し、白帝城を陥落させて、北周の開府の楊長華を殺害した。前後して北周の開府の元契や趙剛らが鎮圧に派遣されたが、五子王らはいずれも撃退した。566年天和元年)、北周の開府の陸騰が王亮や司馬裔らを率いて益州に赴くと、楼船を準備して、長江を下った。このころ五子王は石黙城[3]に拠り、子の向宝勝は双城に拠り、冉令賢は水邏城に拠っていた。陸騰らは水邏城の冉令賢を破り、五子王のもとに使者を派遣して降伏を勧めたが、五子王は聞き入れなかった。陸騰は王亮を派遣して牢坪に駐屯させ、司馬裔を双城に向かわせて攻略を図った。陸騰は反乱側の逃走を予測して、あらかじめ先に回り込んで柵を立てさせていた。案の如くに逃走した反乱軍をほしいままに撃破した。五子王は石黙城で捕らえられ、向宝勝も双城で捕らえられて、向氏の首領たちはことごとく斬られた[4]

脚注

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  1. ^ 周書』賀若敦伝は向五子とする。
  2. ^ 『周書』賀若敦伝および同書李遷哲伝
  3. ^ 『周書』異域伝上による。『北史』四夷伝中は「石墨城」とする。
  4. ^ 『周書』異域伝上