コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

名村元武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
名村 元武
"NAMURA SANZIRO" C. H. de Villeneuve ad nat. del. J. Erxleben del.(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト『日本』第1冊)
時代 江戸時代後期
生誕 天明3年(1783年
死没 天保12年9月25日1841年11月8日
改名 名村源之助、八十郎、三次郎、三四郎
別名 延護[1]
戒名 眉山良月居士
墓所 長崎晧台寺
幕府 江戸幕府阿蘭陀通詞
氏族 藤原姓名村氏別家(八右衛門系)
父母 名村元孝、モト
政、名村元義
テンプレートを表示

名村 元武(なむら もとたけ)は江戸時代後期の阿蘭陀通詞長崎通詞名村氏別家6代目[1]。『ドゥーフ・ハルマ』編纂者の1人。ロシア帝国使節ニコライ・レザノフの通訳を務め、オランダ商館フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとも関わった。

経歴

[編集]

天明3年(1783年)稽古通詞名村三郎助元孝の子として生まれた[1]寛政3年(1791年)3月父の退職に伴い稽古通詞となった[1]文化元年(1804年)ロシア帝国使節ニコライ・レザノフが来航した際通訳を務めた[1]。文化2年(1805年)9月小通詞末席[1]。文化6年(1809年)10月ロシア語英語の学習を命じられた[1]

文政2年(1819年)4月小通詞並[1]。文政6年(1823年)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが来日して教えを請う人々が集まると、他の通詞等とオランダ語を講義した[2]。文政12年(1829年)から天保3年(1832年)まで江戸天文台に勤務した[1]

天保7年(1836年)10月小通詞助、天保8年(1837年)11月小通詞[1]。天保12年(1841年)参府休年出府通詞を務め、同年9月25日59歳で病没した[1]。戒名は眉山良月居士[1]

家族

[編集]
  • 祖父:名村八郎助 - 明和5年(1768年)稽古通詞。安永8年(1779年)退職、某年10月18日病没[1]
  • 父:名村三郎助元孝 - 宝暦6年(1756年)生。安永8年(1779年)稽古通詞、寛政元年(1789年)小通詞末席。寛政3年(1791年)退職、文化元年(1804年)8月4日病没[1]
  • 母:モト - 楢林栄左衛門高美妹。天保7年(1836年)1月18日没[1]
    • 嫡女:政(満佐) - 天保11年(1840年)4月19日没[1]
    • 養子:名村元義 - 大通詞[1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 石原 1988, pp. 52–53.
  2. ^ Philipp Franz v. Siebold, Überfahrt von Kokura nach Simonoseki und Aufenthalt daselbst.

参考文献

[編集]
  • 石原千里「オランダ通詞名村氏 常之助と五八郎を中心に」『英学史研究』第1989巻第21号、日本英学史学会、1989年、37-60頁、doi:10.5024/jeigakushi.1989.37ISSN 0386-9490NAID 130003624843