吉良持長
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時代 | 室町時代前期 - 中期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
戒名 | 長栄寺殿 |
氏族 | 後期東条吉良(下吉良)氏 |
父母 | 父:吉良朝氏 |
子 | 持助、頼高 |
吉良 持長(きら もちなが)は、室町時代前期から中期にかけての武士。後期東条吉良(下吉良)氏3代当主。三河国東条城主。
吉良朝氏の子として誕生。元服時に室町幕府4代将軍・足利義持より偏諱を受けて持長と名乗る。
永享10年(1438年)の永享の乱の際、次男・頼高は鎌倉公方・足利持氏に味方して戦功があったが、父である持長も持氏の反幕府[1]の計画に加わっていたらしい。このため、永享の乱や結城合戦で持氏一族や持氏派の武将が滅ぶと、ことが露見しそうになり、嘉吉元年(1441年)6月23日[2]、足利義教の懲罰を怖れて逐電した[3]。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 当時の将軍は義持の弟・足利義教。
- ^ 嘉吉の乱の前日。
- ^ この件について『建内記』嘉吉元年6月23日の条に「伝聞、吉良東条逐電云々、先度関東ヨリ廻文ヲ以テ相催ス其ノ内カ、云々」の内容がある。ただし、この吉良東条を持助とする見方もある。
出典
[編集]- 『吉良町史 中世後期・近世』