吉田重政
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文明17年(1485年) |
死没 | 永禄12年6月10日(1569年7月23日) |
改名 | 重政、一鴎(号) |
別名 |
実重[1]、秀重[1]、方雄[1]、豊経[1] 通称:助三郎[1]、助左衛門 |
官位 | 出雲守 |
主君 | 六角義賢→朝倉義景→六角義賢 |
氏族 | 吉田氏(佐々木氏支族) |
父母 | 父:吉田重賢 |
兄弟 | 重政、和泉守、若狭守、松本民部少輔 |
子 | 重高、重勝 |
吉田 重政(よしだ しげまさ)は、戦国時代の武将、弓術家。六角氏の家臣。
略歴
[編集]六角氏家臣で吉田流(日置流)弓術の祖、吉田重賢の子として誕生する。弟の和泉守、若狭守とともに弓術の名声が高く[2]、重賢とともに足利義晴の弓術指南役を務めた[1]。
その後、主君の六角義賢(承禎)より弓術の伝授を請われるが、日置流は唯授一人を基本としていたため、重政はこれを断った。そのため義賢と不仲になり、代々の領地を離れて一乗谷に移り住み、越前朝倉氏に仕えた[3]。一乗谷では上原高家(豊前守)から弓書を相伝した[注釈 1]。
6年後、朝倉義景の取りなしによって義賢の元に帰参すると、義賢と養子縁組を結び、弓術を伝授した。これにより重政は義賢より7ヶ所の地を宛がわれた。後に義賢は重政の嫡子、重高(露滴)を養子に迎えて吉田流を伝授したという[2][3]。
永禄4年(1561年)、義賢に従い、京都で三好義興と戦った[2]。
系譜
[編集]本朝武芸小伝による。
- 父:吉田重賢(上野介、太郎左衛門、道宝)
- 弟:吉田和泉守
- 弟:吉田若狭守
- 弟:松本民部少輔 大津松本住
- 男子:吉田重高(出雲守、助左衛門、露滴)-日置流出雲派の祖
- 男子:吉田重勝 (六左衛門、雪荷)-日置流雪荷派の祖
石堂竹林如成(日置流竹林派の祖)は重政に射を習い、竹林派を称した。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 宇野洋三郎『現代弓道講座 第1巻 (総論編)』雄山閣、1970年8月25日、136頁。ISBN 9784639022022。
- 山本大、小和田哲男『戦国大名家臣団事典 西国編』新人物往来社、1981年8月25日、73-74頁。ISBN 9784404010766。
- 日夏繁高『本朝武芸小伝』大日本武徳会本部、1920年(原著1716年)、25-26頁。doi:10.11501/927114 。2021年11月20日閲覧。