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吉田重政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉田 重政
時代 戦国時代
生誕 文明17年(1485年
死没 永禄12年6月10日1569年7月23日
改名 重政、一鴎(号)
別名 実重[1]、秀重[1]、方雄[1]、豊経[1]
通称:助三郎[1]、助左衛門
官位 出雲守
主君 六角義賢朝倉義景→六角義賢
氏族 吉田氏佐々木氏支族)
父母 父:吉田重賢
兄弟 重政和泉守若狭守松本民部少輔
重高重勝
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吉田 重政(よしだ しげまさ)は、戦国時代武将弓術家。六角氏の家臣。

略歴

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六角氏家臣で吉田流(日置流)弓術の祖、吉田重賢の子として誕生する。弟の和泉守若狭守とともに弓術の名声が高く[2]、重賢とともに足利義晴の弓術指南役を務めた[1]

その後、主君の六角義賢(承禎)より弓術の伝授を請われるが、日置流は唯授一人を基本としていたため、重政はこれを断った。そのため義賢と不仲になり、代々の領地を離れて一乗谷に移り住み、越前朝倉氏に仕えた[3]。一乗谷では上原高家(豊前守)から弓書を相伝した[注釈 1]

6年後、朝倉義景の取りなしによって義賢の元に帰参すると、義賢と養子縁組を結び、弓術を伝授した。これにより重政は義賢より7ヶ所の地を宛がわれた。後に義賢は重政の嫡子、重高(露滴)を養子に迎えて吉田流を伝授したという[2][3]

永禄4年(1561年)、義賢に従い、京都三好義興と戦った[2]

永禄12年(1569年6月10日に死去。享年85。

系譜

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本朝武芸小伝による。

石堂竹林如成日置流竹林派の祖)は重政に射を習い、竹林派を称した。

脚注

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注釈

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  1. ^ 日夏は、重政が一乗谷で高家から相伝した伝書の奥書に永正12年、近江帰国の際に相伝した伝書の奥書に永正17年とあることから、重政が一乗谷へ移ったのは永正12-13年(1515年-1516年)、近江に帰国したのは永正17年(1520年)であろう、ただ義賢(1521-1598)の年齢を考えれば証拠とはし難い、としている[3]

出典

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  1. ^ a b c d e f 宇野 1970, p. 136.
  2. ^ a b c 山本、小和田 1981, p. 73-74.
  3. ^ a b c 日夏 1920, p. 25-26.

参考文献

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  • 宇野洋三郎『現代弓道講座 第1巻 (総論編)』雄山閣、1970年8月25日、136頁。ISBN 9784639022022 
  • 山本大小和田哲男『戦国大名家臣団事典 西国編』新人物往来社、1981年8月25日、73-74頁。ISBN 9784404010766 
  • 日夏繁高本朝武芸小伝』大日本武徳会本部、1920年(原著1716年)、25-26頁。doi:10.11501/927114https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9271142021年11月20日閲覧 

関連項目

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外部リンク

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