吉田連正
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正14年7月27日(1586年9月10日) |
改名 | 兼正(初名)、連正 |
別名 | 孫市郎、右京亮(通称)[注釈 1] |
戒名 | 祥雲院殿月叔連正大居士[1] |
墓所 | 柳川市西方寺 |
主君 | 立花道雪→立花宗茂 |
氏族 | 藤原姓吉田氏 |
父母 | 吉田兼晟(図書助) |
兄弟 | 連正、吉田兼法[注釈 2] |
子 | 成兼(舎人)、由布惟明室、平野善太夫室 |
吉田 連正(よしだ つらまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。立花氏の家臣。
出自
[編集]先祖の吉田兼貴(式部太輔)は天文16年(1547年)に大友義鑑治下の豊後国に下向し、豊後に残った子孫が連正であるという。父・吉田兼晟は永禄年間(1558年-1570年)に至り、戸次鑑連(後の立花道雪)に属したようである[2][3]。
略歴
[編集]連正は年月日不詳ながら鑑連が剃髪する以前に仕官する。科人の誅伐[4]や戦い[注釈 3] への御供などにより度々田地を預かったり[27][28][29]、鑑連や立花宗茂、大友義統より感状を賜っている。また、鑑連の「連」の一字を拝領される。
天正14年(1586年)の岩屋城の戦いにおいて高橋紹運の守る岩屋城への援軍及び紹運の先途見届けを願い出て援軍の頭人を命じられる[30]。信国の腰物を拝領されて援軍に迎い[3]、天正14年7月27日(1586年9月10日)に岩屋において戦死する[31][32]。家督は子・成兼が継いだ[31][33]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 原 達郎『柳川藩 立花家中列伝』80頁
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)解説 125 吉田家文書 P.21。
- ^ a b 『柳河藩享保八年藩士系図・上』第一分冊 吉田P.121
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)125 吉田家文書 一四 戸次鑑連(道雪)知行預ヶ状 就今度科人誅伐、別而被粉手、剰被疵候、御忠心之次第、感悦無極候、仍於當郡中三町分坪付有別紙事、預進之候、可有知行候、恐々謹言、 十一月廿八日 吉田孫市郎殿 P.395。
- ^ 『戸次軍談』
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61立花文書『戸次道雪譲狀』358頁
- ^ 『福岡県史資料. 第4輯』立花文書 [1] アーカイブ 2020年10月17日 - ウェイバックマシン
- ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一二)筑前多々良濱 永禄十二年五月十八日 P.8~9
- ^ 多々良川の戦い 戸次鑑連の奮戦
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三二 大友宗麟軍忠一見状 永禄十二年五月十八日、立花表於敵陣、長尾岸渥防戦之砌、戸次伯耆守鑑連親類・与力・被官、或分捕高名被疵、或戦死之着到、銘々加披見訖、 P.346~348。
- ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十 筑前多々良浜接戦之事 P.257~261
- ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.85~86
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)125 吉田家文書 一一 立花統虎(宗茂)・戸次道雪連署感状 前十三於清水原合戦之刻、別而被砕手、被鑓疵候高名、感悦無極候、必配當砌一稜可賀之候、恐々謹言 十一月廿四日 吉田右京亮殿 P.392。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)125 吉田家文書 一七 立花統虎(宗茂)・戸次道雪連署感状 今度至米山敵至行候處、最前被懸付候故、良従藤村市丞分捕之由候、高名感悦無極候、必以時分可賀之候、恐々謹言 十月十日 吉田右京亮殿 P.394。
- ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.126
- ^ 吉永正春『筑前戦国史』米の山砦 p.167~168
- ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十四 高橋紹運取返米山付統虎初陣石垣山合戦之事 P.371
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)125 吉田家文書 一八 立花統虎(宗茂)・戸次道雪連署感状 前之十二於武蔵表、其方別而依被砕手、僕従源七郎被疵候、高名感悦無極候、必以時分可嘉之候、恐々謹言 四月廿八日 吉田右京亮殿 P.394。
- ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.64
- ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.132
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)125 吉田家文書 二〇 大友義統感状 去月十九至黒木表道雪越山之刻、於石垣山内遂合戦、秋月家中桑野藤九郎討補之由候、高名之儀感入候、殊其方僕従源七郎・彦四郎・助三郎分捕之由候、心懸之儀無比類候、弥可励馳走事肝要候、恐々謹言 九月廿一日 吉田右京亮殿 P.394。
- ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.134~136
- ^ 吉永正春『筑前戦国史』道雪、紹運、筑後出陣 p.189~194
- ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十五 道雪紹運筑後出張之事 P.398~403
- ^ 『豊前覚書』(六)道雪樣紹運樣敵地を御切り通り黒木高良山御陣成され候次第 P.96
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)125 吉田家文書 一九 大友義統書状 近年道雪任下知、於在々所々遂在陣、別而軍労之次第感入候、殊立花城統虎連續之上者、弥無別儀可励忠意事肝要候、必追而一稜可賀之候、恐々謹言、 二月三日 吉田右京亮殿 P.394。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)125 吉田家文書 一四 戸次鑑連(道雪)知行預ヶ状 於當郡中八町分坪付有別紙事預進之候、可有知行候、恐々謹言、 九月十三日 吉田孫市郎殿 P.393。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)125 吉田家文書 二二 立花統虎(宗茂)・戸次道雪連署知行預ヶ状 今度被仰下旨候而、不圖上國之申候処、軽々与領掌候、乍案中祝着候、可被凌難儀之通路事、辛労難盡紙面候、仍於両郡間五町分坪付有別紙事預置候、可有知行候、恐々謹言、 八月十一日 吉田右京亮殿 P.395。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)125 吉田家文書 一六 戸次道雪・統虎(宗茂)連署知行預ヶ状 六七ヶ年以来、於在々所々毎々砕手、被抽忠貞候績、感心無極候、殊去年言上之首尾重々請上意度依子細候、俄可有上國之由申候処、軽々与可馳走之由候、乍案中祝着候、仍駕輿丁之内九町同彼村役職屋敷畠地并於麓庄間三町、以上拾貳町分之事坪付別紙ニ令袖判預進之候、可有知行候、恐々謹言、 四月廿四日 吉田右京亮殿 P.393。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)125 吉田家文書 一二 高橋紹運書状 追而院内表茂一入御無事候、御留守茂無何事候様ニ承候、此外不申候、 御上國以後者不得幸便故、不通心外候、言上之儀共被仰演、於于今者御返事可相調哉と令挍量候、於其儀者早々御帰國待申候、只々御出勢一日片時茂被差急候躰ニ可被仰調事、御使之可為御器量候、旁用口上候、恐々謹言、 五月十一日 吉田右京亮殿 P.392。
- ^ a b 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)125 吉田家文書 三 吉田舍人留書 元祿十四巳 二月廿三日 吉田六郎兵衛(茂兼)殿 P.389~390。
- ^ 『橘山遺事』 P.171~172
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)125 吉田家文書 一〇 立花統虎(宗茂)感状 今度薩州衆罷出候之刻、至岩屋差籠候之處、父右京戦死仕候事、忠儀之至感心無極候、為其掌三町分預進候、弥可抽奉公事専一候、恐々謹言、 九月十四日 吉田靏寿(成兼)殿 P.392。