吉田成方院
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吉田 成方院(よしだ せいほういん)は、江戸時代の幕府医官。
吉田家は佐々木秀義の六男・吉田六郎の11代孫である吉田徳春が、室町幕府の医官を務め、法印を拝命以来続く名門医家で、徳春の曽孫である吉田宗桂は室町幕府12代将軍・足利義晴の侍医を務め、明に渡り、2年間医学を学んで帰国した名医として名高く[1]、歴代「意安」を名乗った[2]。
成方院家はその分家で[3]、法印に叙せられた後は「盛方院」と名乗る慣例であった。 吉田成方院浄元(宮内卿)は、寛永元年(1624年)法眼に叙し、のちに法印となり、寛文9年(1669年)没。 吉田成方院浄友(治部卿)は、寛文9年(1669年)遺跡を継ぎ、翌年法印に叙し、元禄12年(1699年)没。『享金方』の著書がある[4]。
盛方院を継いでいた浄庵(元寿)の代で、将軍徳川家斉の息女盛姫の「盛」の字を避けて、成方院と称した。天保3年(1832年)4月12日、文姫付奥詰医師より西の丸奥医師に転じ、のち家斉の御匙(侍医長)となり、天保7年(1836年)12月16日、法印に叙任。天保12年(1841年)閏正月30日、大御所家斉の死に際し臨終の瞬間を見逃すという失態を演じたために、(薨去の百ケ日を待って)5月15日付で以下の通り罰せられた。成方院は奥医師解任、隠居、謹慎。同じく西の丸奥医師の職にあった息子・頼庵も連座し、奥医師解任、小普請入り、家禄(世襲禄)も100俵を削られる。同時に浜町矢の倉の屋敷も収公された(これらは医師に対する処分としてはかなり重いものである)。
吉田家累代の墓所は芝の金地院で、同族の吉田意安家、吉田桃源院家と同じ敷地にある。
脚注
[編集]- ^ 藤井尚久 編『医学文化年表』,P369日新書院,昭和17.
- ^ 藤井尚久 著『日本著名医略伝 : 稿本』,P56,藤井尚久,1943
- ^ 『掃苔』2(9), 本草家吉田意安の墓 / 小川春興/p199~202,東京名墓顕彰会,1933-09
- ^ 東京都港区文化財調査委員会編『港区の文化財』第11集 (三田と芝 その2),P64,東京都港区教育委員会,1975