吉岡順作
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吉岡 順作(よしおか じゅんさく、元治元年10月11日(1864年11月10日) - 昭和19年(1944年)9月3日)は、山梨県出身の医師。
略歴
[編集]甲斐国山梨郡徳条村(現・笛吹市春日居町)に、医家であった父・応治の長男として生まれる。明治12年(1879年)に山梨県立医学校に入学し、明治16年(1883年)3月に徽典館医学科(山梨県立医学校から改名)を卒業後、東京に出て田代基徳について医学を修め済生学舎に通学し、明治20年(1887年)4月に医師開業免状を受け東八代郡石和村に医院を開業。明治21年(1888年)3月には西山梨郡甲運村(現・甲府市)に移転、その後、明治23年(1990年)に東山梨郡岡部村、明治30年代に生春医院の名称で石和村、明治40年(1907年)に甲府市富士川町に移転している。また、その間、明治33年(1900年)5月には東八代郡医師会長、明治38年(1905年)5月には山梨県医師会長を務めている。
山梨県地方病研究の端緒
[編集]山梨県内における地方病 (日本住血吸虫症)撲滅に尽くした医師の一人であり、地方病の病体解剖への道を開いた吉岡は、自身が著した『地方病(日本住血吸虫病)病原虫の石灰死滅に関する研究』昭和13年(1938年)刊において、地方病研究の端緒について記している。
— 『地方病(日本住血吸虫病)病原虫の石灰死滅に関する研究』昭和13年(1938年)
- 山梨県地方病研究の端緒
- 前余が開業地の附近には山梨県特有の腹水患者多く西山梨郡玉諸村[1]向村組杉山仲子(五十四歳)又同病に侵され年月の久しき同僚辻直記氏[2]の立会を求め治療せしも其効果を認めず、明治三十五年五月[3]回春の見込なきを自覚し自ら進んで病原の研究を切望す。依て東八代郡同盟医会員と協議し東山梨郡及甲府市医会員に予め此の件を通達し置きしを以て死亡と同時に六月五日檄を飛ばし県病院長下平用彩氏執刀解剖す。其の結果肥大せる肝脾と腸壁及び肝臓内に虫卵様のものを認めたり、東八代郡同盟医師会は義烈を賛し、同村盛岩寺境内に熊谷県知事[4]の篆額を請ひ、碑を立て[5]以て其の意功を永遠に伝ふ、古来より本県下に潜在湖浸、病原不明不可思議なる腹水症とし療法なきを憂ひ、当時解剖は一般民衆の恐怖嫌畏するに拘らず社会の為め死後の解剖を決意し、研究資料に供したる女丈夫の義行により此の仮面を剥奪す、之れ地方病研究の端緒にして又本県病体解剖の嚆矢なり、再び茲に其の真相を叙述す。
著作
[編集]- 『家庭衛生論』明治41年(1908年)刊
- 『学校衛生論』明治42年(1909年)刊
- 『日本住血吸虫病予防ノ予報』明治43年(1910年)刊
- 『簡易学校衛生一斑』明治44年(1911年)刊
- 『山梨地方病ノ予防』大正元年(1912年)刊
- 『十二指腸虫病ノ予防』大正2年(1913年)刊
- 『国民ト体育』大正3年(1914年)刊
- 『第二国民ト体育』大正7年(1918年)刊
- 『体育百話』大正10年(1921年)刊
- 『体育ト栄養』大正11年(1922年)刊
- 『衛生上ヨリ見タル国民教育ノ改善策』昭和10年(1935年)刊
- 『地方病(日本住血吸虫病)病原虫の石灰死滅に関する研究』昭和13年(1938年)刊