吉岡倭文麿
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吉岡 倭文麿(よしおか しずまろ、1849年(嘉永2年9月[1][注 1])- 1897年(明治30年)4月18日[1])は、明治時代の政治家。神職。衆議院議員(2期)。別名・要男、要人[2]。
経歴
[編集]高橋権兵衛の四男として[3]、隠岐国周吉郡矢尾村[2](島根県周吉郡西郷港町、中町[3]、西郷町を経て現隠岐の島町)に生まれる。幼くして父母を亡くし、12歳の時に同郡西町(西郷町を経て現隠岐の島町)の吉岡家の養子となり、13歳にして家督を相続した[3]。その後、15歳にして養父を失う[4]。医師の野津徹斎や田中鼎助につき和漢学を修めた[4]。1868年(慶応4年)隠岐騒動で自治政府の警護頭取を務めた[2]。その後、戊辰戦争に従軍した[4]。1871年(明治4年)水祖神社神官となり、八尾小学校訓導、神道教導職、郡書記、郡学務委員、戸長を歴任した[4]。
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では島根県第6区から出馬し当選[1]。つづく第2回総選挙でも当選し衆議院議員を2期務めた[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本帝国国会議員正伝』203頁では嘉永元年9月生。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 木戸照陽 編『日本帝国国会議員正伝』田中宋栄堂、1890年 。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。
- 『島根県歴史人物事典』山陰中央新報社、1997年。