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吉山明兆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉山明兆
自画像
生誕 1352年
淡路国津名郡物部庄
死没 (1431-09-26) 1431年9月26日(79歳没)
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 仏画頂相水墨画
影響を与えた
芸術家
雪舟[1]

吉山 明兆(きつさん みんちょう、正平7年/文和元年(1352年) - 永享3年8月20日1431年9月26日))は、室町時代前・中期の臨済宗画僧

生涯

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淡路国津名郡物部庄(現:兵庫県洲本市物部)出身。西来寺(現:兵庫県洲本市塩屋2丁目)で出家後、臨済宗安国寺(現:兵庫県南あわじ市八木大久保)に入り[2]東福寺永明門派大道一以の門下で画法を学んだ[2]。その後、大道一以に付き従い東福寺に入る[2]。周囲からは禅僧として高位の位を望まれたが、画を好む明兆はこれを拒絶して、初の寺院専属の画家として大成した[2]。作風は、北宋李竜眠代の仏画を下敷きにしつつ、輪郭線の形態の面白さを強調し、後の日本絵画史に大きな影響を与えた。第4代将軍足利義持からもその画法を愛されている。僧としての位は終生、仏殿の管理を務める殿司(でんす)の位にあったので、兆殿司と称された[2]。1431年、死去。享年80。

東福寺には、『聖一国師像』や『四十祖像』、『寒山拾得図』、『十六羅漢図』、『大涅槃図』など、多くの著名作品がある。東福寺の仏画工房は以前から影響力を持っていたが、明兆以後は東福寺系以外の寺院からも注文が来るようになり、禅宗系仏画の中心的存在となった。工房は明兆没後も弟子達によって受け継がれ、明兆画風も他派の寺院にも広まって、室町時代の仏画の大きな流れとなってゆく。弟子に霊彩赤脚子など。

代表作

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渓陰小築図(部分)
作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 文化財指定 備考
円爾弁円(聖一国師)像 絹本著色 1幅 267.4x139.7 東福寺 款記「明兆筆」 重要文化財 現存する頂相画の中では最大級の作品
円鑑禅師(蔵山順空)像 絹本著色 1幅 永明院(東福寺塔頭、京都国立博物館寄託 重要文化財
在先和尚像 絹本著色 1幅 霊源院(東福寺塔頭) 重要文化財
春屋妙葩 絹本著色 1幅 光源院 永楽2年(1404年 重要文化財
在山素璿像  1幅 東福寺(京都国立博物館寄託) 仲方円伊賛
大涅槃図 東福寺 応永15年(1408年 重要文化財 縦15m・横8mの日本最大の涅槃図
白衣観音 絹本墨画 1幅 74.9x36.6 天性寺(京都国立博物館寄託) 若い時期の作品 款記「明兆筆」 重要文化財
白衣観音図 紙本墨画淡彩 1幅 93.2x35.8 MOA美術館 応永32年(1425年 款記「行年七十四明兆筆」 重要文化財
釈迦三尊・三十祖像 絹本著色 7幅 36.7x58.0(各) 鹿王院 応永33年(1426年 各幅に款記「行年七十五年明兆筆」/「破艸鞵」白文方印 重要文化財 厳中周噩賛
四十祖像 紙本著色 40幅 東福寺 応永34年(1427年) 重要文化財
達磨蝦蟇鉄拐図 紙本淡彩 3幅 達磨:239.0x149.0
蝦蟇鉄拐:230.0x118.0(各)
東福寺(京都国立博物館寄託) 達磨:款記「明兆筆」/「破草鞵印」白文方印
蝦蟇鉄拐:款記「明兆」/「破草鞵印」白文方印
重要文化財 3幅のうち蝦蟇・鉄拐図は顔輝の絵図を模写したもの

伝明兆作品

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作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 文化財指定 備考
渓陰小築図 紙本墨画 1幅 101.5x34.5 金地院 応永20年(1413年 国宝
五百羅漢図 絹本著色 45幅 173.6x89.4(各) 東福寺 永徳3年-至徳3年(1383年-1386年 無款 重要文化財 内20幅は京都国立博物館に寄託
五百羅漢図 絹本著色 2幅 174.0x89.9(各) 根津美術館 永徳3年-至徳3年10月(1383年-1386年) 無款 重要文化財 両作は、元々東福寺に伝わり、1幅に羅漢10人ずつ描いた計50幅の作品だったが、数度の散逸を経たため、このような所蔵状態になっている。明兆がこの大作に没頭している時、彼の老母が病に臥せっていたが、この画事のため帰郷できず、かわりに自画像を描いて母に送ったという逸話が残る。この原本は残っていないが、東福寺には住吉広行による模本がある。
聖一国師岩上像 紙本墨画淡彩 1幅 35.5x41.8 東福寺(京都国立博物館寄託) 無款 重要文化財 岩の上で寛いだ姿を描き、このような図は非常に珍しい。小型で賛も無く、縦に折り畳んで出来たような折り目があり、元々は下書きか草稿のようなものだったと考えられる[3]
大道一以像 紙本墨画 1幅 47.0x16.2 奈良国立博物館 明徳5年(1394年)賛 重要文化財 性海雲見賛。賛文は細川満春の求められて記したが、画像の方は明兆が師への個人的な思慕の念によって制作したとされる[4]

その他

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ドキュメンタリー

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脚注

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出典

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  1. ^ “明兆”. 朝日新聞 (淡路). (2012年8月21日). オリジナルの2017年7月10日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20170710201838/https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E5%85%86-140137 2017年7月11日閲覧。 
  2. ^ a b c d e すべてが規格外・圧倒的スケール…東福寺で「画聖」明兆が誕生した「大きな」理由とは”. 読売新聞オンライン (2023年3月15日). 2023年7月25日閲覧。
  3. ^ 『「京都五山 禅の文化」展』13図
  4. ^ 『「京都五山 禅の文化」展』228図
  5. ^ "よみがえる伝説の画聖・明兆(みんちょう)". NHK. 2023年4月16日. 2023年4月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月22日閲覧

参考資料

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外部リンク

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