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吉原芳仙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉原 芳仙(よしはら ほうせん、本名:大倉・憶良・豊七、雅号:翠宏・寛秀・幹豊、1896年明治29年〉5月15日 - 1983年昭和58年〉8月29日)は、日本日本画家

略歴

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新潟県中蒲原郡大郷村大字東笠巻(現 新潟市南区東笠巻)の旧家・吉原家の吉原三蔵の長男として生まれた[1][2][注 1]

新潟中学校を中退すると画家を志し、大正時代の始めから鈴木松年寺崎広業荒木十畝中村不折らに師事、1918年大正7年)に名古屋市展覧会で金杯を、1919年(大正8年)に福岡市の展覧会で銀杯を獲得した。新潟県中蒲原郡村松町の本行寺に住んでいる時に同町を巡錫していた曹洞宗第11代管長新井石禅の知遇を得て、「芳仙」の雅号を受け、インドの詩人・タゴールへの紹介状をもらうと、1923年(大正12年)2月末に同町を去り、1924年(大正13年)3月に台湾に渡り、1925年(大正14年)にインドに入国、タゴール美術学校に入学してタゴールに幽玄哲学的画論の教えを受けた。1926年(大正15年)にインド西ベンガル州タイガーヒル英語版をベースキャンプとして半年間 ヒマラヤスケッチし、インドの展覧会で入選した。1927年昭和2年)に横山大観から「徹底的に修業せよ」との激励の手紙をもらうと、インドの展覧会で審査員を務めたのち、インドを出国、エジプトサハラ砂漠を2カ月間 放浪し、イタリアを経て、同年暮れにパリに到着、1928年(昭和3年)にフランスサロン(展覧会)で入選した。1929年(昭和4年)にパリを拠点に、ドイツイギリススペインベルギーオランダスイスなど、ヨーロッパ各地を旅行し、夏にイタリアを訪れてローマに半年間 滞在した。1930年(昭和5年)にフランスを出国、シンガポールを経て、1931年(昭和6年)に中国を旅行し、1932年(昭和7年)に朝鮮金剛山で半年間 山中生活をして山の姿をスケッチしたのち、日本に帰国、1933年(昭和8年)に台湾の南東沖にある紅頭嶼に渡って3年間 原住民のタオ族とともに生活して彼らが農耕している姿をスケッチした。1945年(昭和20年)に終戦とともに日本に帰国、1950年(昭和25年)11月に新潟市窪田町(現 新潟市中央区窪田町)にアトリエを構えた[4][5]

1966年(昭和41年)5月に自分の絵画作品を売り払ってつくった500万円を投じて新潟縣護國神社の境内に芭蕉堂を建立して新潟市に寄付した[6]

1968年(昭和43年)5月に渡辺浩太郎新潟市長らによって新潟市一番堀通町(現 新潟市中央区一番堀通町)の白山公園に芳仙画碑が建立された[7]

1973年(昭和48年)に芳仙後援会などの有志によって芭蕉堂の傍らに吉原芳仙の胸像と句碑が建立された[8]

1983年(昭和58年)8月29日午後10時13分に脳血栓のため死去、87歳没。告別式は自宅で執り行われた[9]

画風は幽玄的な日本画洋画風な趣を加えたものであった[10]

栄典・表彰

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親族

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著作物

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著書

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  • 『天竺浪人物語』吉原憶良(私家版)、1930年。
    • 『天竺浪人物語』復刻版、文久堂、1987年。

画集

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  • 『芳仙画集1966』吉原芳仙(私家版)、1966年。
  • 『芳仙画集1977』吉原芳仙(私家版)、1977年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 吉原三蔵は1918年大正7年)から大郷村村会議員を務めている[3]
  2. ^ アカデミア賞の受賞と同時に名誉会員に推薦された。

出典

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  1. ^ 現代 日本画家辞典』240頁。『吉原芳仙展 図録』33頁。『新潟県博物館協議会 研究紀要』第10号、7頁。『青少年の座右銘 現代新潟の百人』208頁。
  2. ^ 芳仙画集1966』9頁。「吉原芳仙画伯句碑建立趣意書」『芳仙画集1977』本文。『新潟日報』1984年5月8日付朝刊、17面。
  3. ^ 大郷村誌』346頁。『白根市史 巻五 近代史料』1166頁。
  4. ^ 芳仙画集1966』8-21頁。「吉原芳仙画伯句碑建立趣意書」『芳仙画集1977』本文。「吉原芳仙略歴」『芳仙画集1977』前付。「吉原芳仙略歴」『吉原芳仙展 図録』後付。
  5. ^ 現代 日本画家辞典』240頁。『新潟市美術館 全所蔵作品図録 絵画編』82頁。『新潟県美術展覧会50回展記念 新潟県美術名鑑』69頁。『越佐書画名鑑』72頁。『越佐書画名鑑 第二版』106頁。『越佐人物誌 中巻』1032-1033頁。
  6. ^ 市報にいがた』第147号、4面。「芭蕉堂」『芳仙画集1977』本文。「吉原芳仙略歴」『芳仙画集1977』前付。「吉原芳仙略歴」『吉原芳仙展 図録』後付。『芳仙画集1966』2-3頁。『新潟日報』1965年2月9日付朝刊、市民版、12面。
  7. ^ 越佐人物誌 中巻』1033頁。「吉原芳仙略歴」『吉原芳仙展 図録』後付。
  8. ^ 「芳仙画人胸像建設趣意書」・「吉原芳仙画伯句碑建立趣意書」『芳仙画集1977』本文。「吉原芳仙略歴」『吉原芳仙展 図録』後付。
  9. ^ 新潟日報』1983年8月31日付朝刊、12面。『新潟県年鑑 1985』681頁。
  10. ^ 新潟日報』1984年5月8日付朝刊、17面。『越佐人物誌 中巻』1032頁。
  11. ^ 「人のために」『芳仙画集1977』本文。「吉原芳仙略歴」『吉原芳仙展 図録』後付。
  12. ^ 越佐人物誌 中巻』1033頁。「吉原芳仙略歴」『吉原芳仙展 図録』後付。『美術人年鑑 1960』68頁。『美術年鑑 1969』118頁。
  13. ^ 「紺綬褒章」「褒賞」『官報』第12091号、17頁、大蔵省印刷局、1967年4月6日。

参考文献

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  • 『芳仙画集1966』吉原芳仙[画]、吉原芳仙(私家版)、1966年。
  • 『芳仙画集1977』吉原芳仙[画]、吉原芳仙(私家版)、1977年。
  • 「吉原芳仙」『現代 日本画家辞典』240頁、猪木卓爾[編著]、日本美術新報社、1956年。
  • 「吉原芳仙」『新潟市美術館 全所蔵作品図録 絵画編』82-83頁、新潟市美術館[編]、新潟市美術館、2006年。
  • 「吉原芳仙」『新潟県美術展覧会50回展記念 新潟県美術名鑑』69頁、新潟日報事業社[編]、新潟日報社、1995年。
  • 「吉原芳仙」『越佐書画名鑑』72頁、荒木常能[編]、新潟県美術商組合、1993年。
  • 「吉原芳仙」『越佐書画名鑑 第二版』106頁、荒木常能[編]、新潟県美術商組合、2002年。
  • 「吉原芳仙」『越佐人物誌 中巻』1032-1033頁、牧田利平[編]、野島出版、1972年。
  • 「吉原芳仙」『青少年の座右銘 現代新潟の百人』208-211頁、鶴岡正夫[編]、石橋犀水[題字]、育英出版社、1976年。
  • 『吉原芳仙展 図録』新潟市潟東樋口記念美術館・新潟市潟東歴史民俗資料館・西蒲区文化施設を運営する市民の会[編]、新潟市潟東樋口記念美術館・新潟市潟東歴史民俗資料館・西蒲区文化施設を運営する市民の会、2023年。
  • 「𠮷原芳仙展 (2022.9.3〜11.3) を開催して」『新潟県博物館協議会 研究紀要』第10号、4-10頁、橋本博文[著]、新潟県博物館協議会、2023年。
  • 「祖父吉原芳仙儀」『新潟日報』1983年8月31日付朝刊、12面、新潟日報社、1983年。
  • 「求む! 吉原画伯の作品 白根で遺作展 愛好家に出展訴える」『新潟日報』1984年5月8日付朝刊、17面、新潟日報社、1984年。
  • 芭蕉庵再建にかける老画家 自作60点を資金源に 日本画家 吉原さん 建設後は市へ寄贈 国宝級「ヒマラヤ百景」」『新潟日報』1965年2月9日付朝刊、市民版、12面、新潟日報社、1965年。
  • 芭蕉と私 (PDF) 」『市報にいがた』第147号、4面、吉原芳仙[著]、新潟市役所、1966年。
  • 『美術人年鑑 1960』日本美術振興会[編]、美術評論社、1959年。
  • 『美術年鑑 1969』美術年鑑社、1969年。
  • 『新潟県年鑑 1985』新潟日報社[編]、新潟日報社、1984年。
  • 『大郷村誌』小村弌・大郷村誌編纂委員会[編]、吉原芳仙[題字・装幀・挿絵]、大郷村誌編纂委員会、1956年。
  • 『白根市史 巻五 近代史料』白根市教育委員会社会教育課[編]、白根市教育委員会、1987年。

関連文献

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  • ヒマラヤ画家・吉原芳仙 自宅庭の筆塚 67年ぶり開封 5本発見 秋の企画展で公開」『新潟日報』2022年8月20日付朝刊、12面、新潟日報社、2022年。
  • 「𠮷原芳仙展 絵画から愛用品まで多彩」「展覧会へようこそ」『新潟日報』2022年10月8日付朝刊、11面、橋本博文[著]、新潟日報社、2022年。
  • 「画人芳仙の人間像 化学も駆使し迫る 潟東樋口記念美術館 来月3日まで企画展」『新潟日報』2022年10月20日付朝刊、14面、新潟日報社、2022年。

外部リンク

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