カステラ
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カステラ | |
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種類 | 菓子 |
誕生時期 | 16世紀頃 |
提供時温度 | 常温 |
主な材料 | 鶏卵・砂糖・水飴・小麦粉 |
カステラは、鶏卵・砂糖・水飴・小麦粉を混ぜ合わせた生地をオーブンで焼いた菓子の一つ。ポルトガルから伝わった南蛮菓子を元に日本で独自に発展した和菓子である。プレーンタイプにも蜂蜜・牛乳を加えることがあり、チョコレート・抹茶・黒糖などを加えた変種も存在する。
近代以前は「カステーラ」「カステイラ」と呼称・表記されることが多く、「家主貞良」「加須底羅」などの漢字を当てた表記とともに、現在も一部の商品名などにその名残が見られる。
種類
[編集]ポルトガルには「カステラ」という名の菓子はなく、後述する原型とされる菓子も、カステラとは見た目も製法も異なる。
日本におけるカステラは長崎県長崎市が本場とされている。正方形または長方形の大きな型に生地を流し込んで、オーブンで焼いた後にさお型に切る。もち米から作られる水飴の使用が日本(長崎)の特徴、ひいては和菓子に分類される要因で、しっとりとした食感がある。さお型に切り揃える際に、切り落とし(耳)が発生する。これを袋詰めしたり、ラップで包んだりして、本来の製品よりも割安で販売する場合も多い。材料は本来の製品と変わらず、むしろ砂糖が蜜のように集まったり、結晶化したりして、甘みを増している場合もあり、おやつなど贈答以外の用途に購入される。
「長崎カステラ」との呼称があるが、これは長崎式の製法によるカステラの意味であり、必ずしも長崎産のカステラとは限らない。大阪府大阪市の心斎橋には、長崎カステラを製造している長崎堂と、長崎カステラの文明堂からののれん分けであるものの、独自の製法で長崎カステラにないキメ細やかなカステラを製造している銀装がある。
この他に釜カステラ(東京式釜カステラ・東京カステラ)[1][2]、蒸しカステラ、カステラ饅頭、ロールカステラ、人形焼などがある。釜カステラは、「6面焼き」と呼ばれるものもあり、一つ一つの型に入れてオーブンで焼いたタイプで、水飴を用いないことからさっぱりとしており、カステラの原型に近いともいわれる。
カステラを応用した菓子としては、福島県会津若松市の会津葵、愛媛県のタルト、島根県の八雲小倉、長崎市の桃カステラなどがある。料理としては、岡山県(主に倉敷市)の鮮魚カステラや、伊達巻もカステラの調理方法を応用したものである。このほか、宮城県や沖縄県の名物として「カステラかまぼこ」と呼ばれる焼きかまぼこがあるが、それぞれに料理法は異なる。
語源
[編集]一般的にカステラの名前の由来は、イベリア半島に存在したカスティーリャ王国(Castilla)のポルトガル語発音である「カステラ」(Castella)であるとされ、「ボロ・デ・カステラ」(Bolo de Castella、カスティーリャ王国の菓子の意)が「カステイラ」あるいは「カステラ」になったと言われている[3]。1704年(宝永元年)刊行の『長崎名物尋(ね)考』には、「カステイラという菓子は、本名カストルボルというを訛りていうなり」という記載があるという[4]。
また、異説として、スペインやポルトガルでメレンゲを泡立てる際に「城(castelo)のように高くなれ」というかけ声をかけることから、カステロがカステラとなったのではないかとする説もある[3][5]。ただし、卵白をメレンゲ状に撹拌する手法は日本にカステラが伝わった後に普及したものであり、カステラの語源とするのは妥当でないとする見解もある[6][注釈 1]。
夏目漱石は1907年(明治40年)に発表した『虞美人草』で、西洋菓子について「チョコレートを塗った卵糖(カステラ)を口いっぱいに頬張る」[8]と記して、「卵糖」という当て字を考案したが、この当て字は他に用例も少なく、また実際にはチョコレートケーキに使われているスポンジケーキを指していたと考えられる。
歴史
[編集]カステラの起源
[編集]カステラの起源については、スペインの焼き菓子「ビスコチョ」(Bizcocho)とする説や、ポルトガルの焼菓子「パン・デ・ロー」(pão de ló)とする説がある。
ビスコチョは、「二度焼くこと」が語源の焼き菓子である。元は乾パン状の堅いものだったが、1611年に出版されたスペインの辞書『コバルビアスのコトバ辞書』には、当時のビスコチョに「小麦粉と卵と砂糖で作る美味しい別のタイプ」もあったことが記されている[3]。
渡辺万里は、旧カスティーリャ地方のサモラに伝わるパンに近いビスコチョ「レボホ・ドゥーノ」(堅いレボホの意)を紹介したうえで、このようなビスコチョが「ボーロ・デ・カステイラ」(カスティーリャ王国のパン〔ママ〕)としてポルトガルで定着したのではないかと述べている[9]。岡美穂子は、1680年にポルトガルで出版されたドミンゴス・ロドリゲス『料理法』に見られる「ビスコウト・デ・ラ・レイナ」(ラ・レイナla Reinaはスペイン語で女王・王妃の意)に初期のカステラとの類似点があることを指摘したうえで、ラ・レイナとは1525年にポルトガル王室に嫁いだカスティーリャ王女カタリナ・デ・アウストリアを指している可能性が高いとし、カタリナがポルトガルにこの菓子を伝えて「カスティーリャの菓子」と呼ばれるようになったのではないかと考察している[10]。
パン・デ・ローは、16世紀半ばに書かれた『ドナ・マリア内親王の料理書』(マリア・デ・ポルトゥガル参照)に掲載されているのが文献上の初出である。パン・デ・ローと砂糖を使ったビスコチョはどちらも16世紀に生まれており、パン・デ・ロー自体がビスコチョから発展したものではないかとする見解もある[11]ほか、当時イベリア半島に進出していたアラブ文化の影響でカスティーリャとポルトガルで同時期に似た菓子が生まれた可能性も示唆されている[12]。
日本における歴史
[編集]1846年(弘化3年)の川北温山『原城紀事』に、江戸時代中期に書かれた『耶蘇天誅記』からの引用として、1557年(弘治3年)に肥前唐津で布教を進めた宣教師が作った菓子類が挙げられており、その中に「角寺鐵異老」(カステイラ)がある[13]。1626年(寛永3年)の小瀬甫庵『太閤記』にも、宣教師が布教の際に「かすていら」などの南蛮菓子をふるまっていたことが書かれている。
日本で初めてカステラを焼いた具体的な人物としては、豊後府内に病院を設立して病人に滋養食として牛乳や牛肉を与え、大友宗麟を南蛮料理で饗応したこともある宣教師ルイス・デ・アルメイダ[14][15]や、1592年(文禄元年)に肥前名護屋で秀吉に南蛮料理や南蛮菓子をふるまった史料の残る村山等安[16]などが候補に挙げられるが、明確な史料はない。
1600年(慶長5年)前後の成立と見られる『南蛮料理書』には、「かすてほう路」という名称でカステラの製法が載っており[17]、1626年(寛永3年)の後水尾天皇の二条城行幸や1630年(寛永7年)の島津家での将軍御成の際にカステラが供されている[18]。1720年(享保5年)成立の西川如見『長崎夜話草』には、「長崎土産物」という項の「南蛮菓子色々」の中に「カステラボウル」が見られる[19]。
江戸時代には1644年(寛永21年)に名古屋で、1681年(天和元年)に京都でカステラに関する記録が残されている。江戸中期には既に江戸城でもカステラが日本の菓子として勅使の接待などで提供されていた[20]。カステラを焼くための炭釜の改良が進められ、江戸時代中期には現在の長崎カステラの原型に近いものが作られている。長崎カステラの特徴である水飴の使用は、明治時代以降の西日本で始められたと言われ、これにより現在のしっとりとした食感となった。西日本においては、原型のパウンドケーキのようなさっくりとした感触が好まれなかったと見られる。日本伝来当時、平戸島の平戸松浦家において、南蛮菓子としてカステラが宴会に出された時、その味に馴染めず、包丁方(料理人)がカステラを砂糖蜜で煮たという逸話もあり、これが平戸名産「カスドース」の原型になったという説もある。
カステラの製法は江戸時代の製菓書・料理書に数多く掲載され、茶会でも多く用いられた。一方、カステラは鶏卵・砂糖・水飴・小麦粉といった栄養価の高い材料の使用から、江戸時代から戦前にかけて結核などの消耗性疾患に対する一種の栄養剤としても用いられていたこともある。近代には水飴の使用が普及して和菓子らしい風味をそなえるようになり、ガスオーブンや電気釜の使用で以前より楽に安定してカステラが焼かれるようになった。こうした改良を経て各地に広まり、第二次世界大戦後の大量生産によって一般に普及したものと推測される。
1939年(昭和14年)から食糧や生活物資の公定価格化が開始され、カステラも価格の全国一律に固定化が行われた。しかし、公定価格の設定は重さ当たりの金額を明示するだけで、味や質を問わなかったためカステラの品質はガタ落ちとなった。このため1941年(昭和16年)9月15日からはカステラの規格化が行われ、砂糖と同量以上の卵と55%の小麦粉、20%の水飴(または蜂蜜、ブドウ糖)を使用し、膨張剤を使わずに厚み1寸6分以上とすることが定められた[21]。
主なメーカー
[編集]- 1624年(寛永元年)創業:カステラ本家福砂屋(長崎県長崎市)
- 1681年(天和元年)創業:松翁軒(長崎県長崎市)
- 1900年(明治33年)創業:文明堂総本店(長崎県長崎市) - 戦前に開設した東京(麻布)・神戸・横浜・新宿・大阪・銀座の各支店を戦後に経営分離した(文明堂も参照)。「カステラ一番、電話は二番」のフレーズと、関東地方では、カンカンダンスを踊るクマの操り人形のCM[22]で知られている。
台湾カステラ
[編集]日本で「台湾カステラ」と呼ばれているスイーツは、台湾では「古早味蛋糕(懐かしの味のケーキ)」や「現烤蛋糕(焼きたてケーキ)」、「布丁蛋糕(プリンケーキ)」などと呼ばれている。ただし、台湾には「台湾カステラ」という呼び方が無く、そのような名前自体も存在しない[23]。
台湾中国語では「蛋糕」は「カステラ」や「スポンジケーキ」を指す言葉であり、「古早味」は「昔ながらの味」、「現烤」は「焼きたて」という意味である。日本のカステラと比べてサイズが大きく、食感はスフレに近く、甘さは控えめである[24]。日本のカステラと同様に、様々なバリエーションがあるが、特にチーズを加えたものが定番となっている点が特徴である。
諸説あるが、日本統治時代に日本人が台湾に持ち込んだ日本版のカステラが、台湾人の好みに合わせて改良されたものとされている[24]。現在のようなプルプル、ふわふわとした形になったのは2000年代に入ってからで、台湾島北部の観光地「淡水」で外国人の観光客たちの注目を集めていた[24]。
台湾には、古早味蛋糕や現烤蛋糕以外にも多くのカステラがあり、例えば「蜂蜜蛋糕」は文字通りハチミツを加えたもので、棒状に切られることが多い。ハチミツを加えない日本の「長崎カステラ」と形が似ているため、両者を同一視する台湾人も少なくない[25]。「岩焼蛋糕」はバスクチーズケーキに似ており、チーズのほかに生クリームやプリンなどを加えることもある。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『カステラの科学』2-1-11 東京式釜カステラ
- ^ 朝日新聞 2006年3月31日
- ^ a b c 『カステラ読本』福砂屋、2005年。
- ^ 「書籍、資料にみるカステラの変遷と広がり」『カステラ文化誌全書』平凡社、1995年。
- ^ 明坂英二『かすてら加寿底良』講談社、1991年。
- ^ 田尻陽一「スペインのカステラのルーツ、ビスコチョを訪ねて」『カステラ読本』
- ^ ホセ・ゴロチャテギ「ビスコチョの歴史」『カステラ文化誌全書』
- ^ 『夏目漱石『虞美人草』』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、p275、春陽堂、1913年。
- ^ 渡辺万里『スペインかすていら巡礼』松翁軒、1992年。
- ^ 岡美穂子「南蛮菓子の文化的背景」『南蛮貿易とカステラ』福砂屋、2016年。
- ^ 「ポルトガルのカステラのルーツ、パン・デ・ローを訪ねて」『カステラ読本』
- ^ 「カステラは洋菓子か、和菓子か」『カステラ文化誌全書』
- ^ 『『長崎夜話草』』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、p36
- ^ 「修道士のカステラ」『カステラ読本』
- ^ 東野利夫『南蛮医アルメイダ』柏書房、1993年。
- ^ 「長崎代官のカステラ」『カステラ読本』
- ^ 鈴木真一「江戸時代のカステラ」『カステラ読本』
- ^ 江後迪子「文献からみた長崎・九州のカステラ」『カステラ読本』
- ^ 『『長崎夜話草』』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、p87
- ^ 出井弘一『カステラの道』學藝書林、1987年7月15日、105 - 108頁。ISBN 4875170297。
- ^ まずいお菓子追放へ新規格登場(昭和16年9月16日 朝日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p157 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ “CMギャラリー”. 文明堂. 2023年7月3日閲覧。
- ^ “実は現地にはない?「台湾カステラ」驚きの用途”. 東洋経済オンライン (2023年4月5日). 2024年10月8日閲覧。
- ^ a b c “人気の台湾カステラはいつどう生まれたのか? 知られざるルーツを専門店に聞いてみた”. BIGLOBEニュース (2022年3月22日). 2024年5月18日閲覧。
- ^ “誤會好大!「長崎蛋糕」不是蜂蜜蛋糕 口感卡滋因為「它」”. 三立新聞網 (2019年12月15日). 2024年5月18日閲覧。