古橋家 (三河)
古橋家(ふるはしけ)は、三河国北設楽郡稲橋村(現在の豊田市稲武町)で、江戸中期より代々酒造業を行い、名主を務めた家柄である。
歴史
[編集]初代古橋義次は、父源治郎と共に中津川用水に力を尽力し、また美濃国恵那郡茄子川村の廃村復興にも努めた。その後秋葉神社参詣の途中、わらじをぬいたのが機縁となって、三河国北設楽郡稲橋村の友人松浦喜兵衛・菅井儀右衛門と三人の共同事業として清酒醸造の業を創め、3年後の享保2年(1717年)に稲橋村に本拠を移し、質業も併せて営み、三河古橋家を興すに至った。
義次は三河古橋家の初代の祖となり、ここで源六郎を名のり、この源六郎が通称で代々家督を相続する際に襲名した。
中でも、古橋暉皃は古橋家六代中興の祖と呼ばれ、19歳で家督を続いで家政を再建した。名主をつぎ、天保の大飢饉には借金借米をして飢民を救済した。文久3年(1863年)、国学の平田篤胤門に入門、訪れる勤皇の志士らを援助し、その一人佐藤清臣(1833年 - 1910年)は、のちに暉皃が明治5年(1872年)に設立した郷学明月清風校の校長になっていた。維新後、三河県庁、伊那県庁に出仕したが、明治5年に退職して帰村、以後村の殖産興業に尽力し、林業をはじめ茶・養蚕・煙草などの事業に取り組み、明治11年(1878年)には近隣の農民有志と農談会を結成し、明治16年(1883年)には官有林の払い下げを受けて植樹を呼びかけ、二宮尊徳(1787年 - 1856年)の起こした報徳仕法を導入して稲橋村の経済の基礎を確立した。
七代古橋義真は父暉皃の教えを畏み、その生涯を勧業・教育に尽くした。北設楽郡長となり、その後東加茂郡長に転任、また北設楽郡長を兼任したが、明治20年(1887年)に両郡長を辞めて後に専ら公共の事に志し、その間稲橋村武節村組合村の村長の職にあったが、自治の成果も大いに上がった。
六代暉皃、七代義真、八代道紀の三代が、一貫した志操をもって収集した書画、その中心となした義真の五十年祭に際し、昭和33年(1958年)に古橋懐古館を建設展示し、昭和46年(1969年)に一般公開して開館した。
古橋家(三河)歴代当主
[編集]- 初代:古橋義次(正保4年 - 元文3年)
- 二代:古橋経仲(元禄11年 - 明和3年)
- 三代:古橋義伯(享保17年 - 安永6年)
- 四代:古橋義陳(宝暦5年 - 文政10年)
- 五代:古橋義教(安永8年 - 嘉永元年)
- 六代:古橋暉皃(文化10年 - 明治25年)
- 七代:古橋義真(嘉永3年 - 明治42年)
- 八代:古橋道紀(明治14年 - 昭和20年)
- 九代:古橋源六郎(昭和7年 - )
外部リンク
[編集]- 古橋懐古館
- 門前博之「芳賀登編「豪農古橋家の研究」」『駿台史学』第53号、明治大学史学地理学会、1981年7月、123-136頁、ISSN 05625955、NAID 120001439059。