古川氏清
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古川 氏清(ふるかわ うじきよ、宝暦8年(1758年) - 文政3年6月11日(1820年7月20日)は、江戸時代中後期の旗本、和算家。通称は吉次郎、吉之助。官位は従五位下、和泉守、山城守。字は珺璋(くんしょう)。不求と号す。子に同じく和算家の古川氏一がいる。
1759年家督を継ぎ、奥右筆などを務め、1811年に従五位下和泉守に叙任された。広敷用人となり文化13年(1816年)8月4日勘定奉行となり、文政3年(1820年)在職中に63歳で没した。墓所は東京都台東区池之端2丁目の東淵寺。法名は、温良院殿前城州刺史譲岳祖恭大居士。
算学は中西流を関川美郷に、久留島流を安井信名に、関流を栗田安之に学んで、至誠賛化流(三和一致流)を創立した。著書に「算籍」「円中三斜矩」等がある。
弟子に久保寺正久、志村昌義らがいる。大名の松平忠和にも算学を教えている。
著書
[編集]- 「愛宕額答術解」(1780年)
- 「饗応算法」(1782年)
- 「古川氏算額論」(1784年)
- 「円中三斜矩」(1798年)
- 「算則」
- 「側円求積明解」(1818年)
- 「数学雑著招差審解」
- 「風箏全書」
参考文献
[編集]- 日本人名大辞典(講談社)