古今亭右朝
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本名 | |
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別名 | 橘右朝(初代) |
生年月日 | 1948年11月2日 |
没年月日 | 2001年4月29日(52歳没) |
出身地 | 日本・東京都台東区 |
師匠 | 三代目古今亭志ん朝 |
名跡 | 1. 古今亭志ん八 (1975年 - 1988年) 2. 古今亭右朝 (1988年 - 2001年) |
出囃子 | 小鍛冶 |
活動期間 | 1975年 - 2001年 |
所属 | 落語協会 (1975年 - 1978年) 落語三遊協会 (1978年) 落語協会 (1978年 - ) |
受賞歴 | |
受賞歴の項目参照。 | |
古今亭 右朝(ここんてい うちょう、1948年11月2日 - 2001年4月29日)は、落語家。本名∶田島 道寛。東京都台東区浅草橋出身。生前は落語協会所属。出囃子は「小鍛冶」。
経歴
[編集]三人兄弟の末っ子。国分寺市立第三小学校、国分寺市立第二中学校、東京都立武蔵高等学校、日本大学芸術学部文芸学科卒業。高田文夫とは日本大学芸術学部の同期[1]で落語研究会出身。右朝が落研で会長の時、高田は副会長だった[2][3]。
最初は寄席文字の橘右近に師事し寄席文字を修行、「橘右朝」の名前をもらう。
1975年11月に三代目古今亭志ん朝に入門、古今亭菊助と共に楽屋入りし、「志ん八」を名乗る。
1980年6月古今亭菊之助、古今亭菊松、金原亭駒平と共に二ツ目昇進する。1987年5月に落語協会真打昇進試験に不合格となる[4][5]。
1988年6月、真打昇進と同時に右近の「右」と師匠志ん朝の「朝」を取って古今亭右朝となる。落語協会の真打としては100人目で昭和最後の真打となった。この年から1993年まで毎年12月29日に新宿末廣亭の余一会・昼席で「こぶ平・右朝二人会」が催され、年末恒例行事となる。その後は、春風亭正朝と「右朝・正朝の二朝会」を開いていた。
2000年4月下席に主任で出演中、声が出なくなる奇病にかかる[6]。のちに肺がんと判明[7]。12月に声が出るようになり、一時的に寄席に復帰する。
2001年4月に代演で数日間池袋演芸場上席(主任:古今亭志ん朝)に出演。生前最後の出演となった[3]。4月29日、肺がんのため、死去[8]。52歳没。同年10月1日に師匠の志ん朝も死去した。
2011年4月29日、築地ブディストホールで、オフィスエムズの主催で「没後10年 追悼 古今亭右朝を偲ぶ会 ~教えた噺、教わった噺」が開催された。出演は川柳川柳・林家正楽(3代目)・立川談之助・金原亭世之介・桂ひな太郎[9]。
2023年5月8日、北沢タウンホールでワタナベエンターテインメントの主催で「オール日芸寄席特別編 古今亭右朝二十三回忌追善公演 右朝ふたたび」が開催された。出演は高田文夫(構成・企画)・立川志らく・春風亭一之輔・柳家わさび[10]。
芸歴
[編集]受賞歴
[編集]- 1984年 - 国立演芸場 花形若手演芸会新人賞 銀賞
- 1985年 - NHK新人落語コンクール 最優秀賞
- 同年 - にっかん飛切落語会 努力賞
- 1986年 - にっかん飛切落語会 若手落語家奨励賞
- 1987年 - 国立演芸場 花形若手演芸会新人賞 金賞
- 同年 - にっかん飛切落語会 若手落語家奨励賞
- 1990年 - 国立演芸場 花形演芸会 金賞
- 1992年 - 国立演芸場 花形演芸大賞 大賞
CD
[編集]- 「「なごやか寄席」シリーズ 初代 古今亭右朝」 締め込み・百川(ユニバーサルインターナショナル)2010年6月
- 「古今亭右朝1 にっかん飛切落語会にて収録」小言幸兵衛・羽織の遊び/花見の仇討・干物箱(2枚組CD/キントトレコード)2011年
- 「古今亭右朝2 真打昇進前後を収録」初日口上・妾馬・粗忽の釘/紙屑屋・質屋庫・権助魚 (2枚組CD/キントトレコード) 2013年
- 「古今亭右朝3」花見酒・転宅・たいこ腹/明烏・厩火事・宿屋の富(2枚組CD/キントトレコード)2017年
- 「古今亭右朝4」夢金・崇徳院・替り目/幾代餅・一分茶番(権助芝居)・首屋(2枚組CD/キントトレコード)2021年
書籍
[編集]執筆
[編集]- 『動物のお医者さん (文庫版・第3巻)』佐々木倫子(白泉社) 解説を書いている。
関連書籍
[編集]- 春風亭一之輔『一之輔、高座に粗忽の釘を打つ』(2012年、白夜書房・落語ファン倶楽部新書)p201~208 *日芸落研時代に顧問として指導を受けている。大学卒業後、一之輔が一朝に入門を願いに行った2日後に右朝は死去。
- 桃月庵白酒『白酒ひとり壺中の天 火焔太鼓に夢の酒』(2013年、白夜書房・落語ファン倶楽部新書)p241~246
- 高田文夫『森繁久弥からビートたけしまで 誰も書けなかった「笑芸論」』(2015年、講談社)p57 *右朝の葬儀時の志ん朝・高田の写真を掲載。
- 稲田和浩『昭和の名人、この一席』(2021年、教育評論社)p248~p254
脚注
[編集]- ^ 高田は放送学科、右朝は文芸学科。
- ^ 高田文夫 (1997年1月25日). 『江戸前で笑いたい 志ん生からビートたけし』 「笑いと二人旅(前編)」. 筑摩書房. pp. 33-38. ISBN 4480872876
- ^ a b 長井好弘 (2001年5月). “東京寄席さんぽ5月上席”. 江戸ネット. 三遊亭あほまろ. 2020年9月14日閲覧。
- ^ 広瀬和生 (2018年5月3日). “『21世紀落語史』【第7回】「古今亭右朝の死」”. 本がすき。. 光文社. 2019年9月3日閲覧。
- ^ この時同時に試験を受けて合格した三遊亭きん歌(のちに三遊亭歌之介→四代目三遊亭圓歌)によれば、志ん八は試験会場に来るのも遅れ、噺の出来も明らかに不出来であったという。原因は、試験前夜に兄弟子達が前祝いと称して遅くまで飲ませたためらしい。 三遊亭歌之介『月ば撃つぞ! 落語家歌之介がゆく』、うなぎ書房、ISBN 978-4-901174-27-5、2009年、199-200ページ。
- ^ 入船亭扇里(@i_senri) (2023年4月21日). “前座の最後は四月下席の末広亭夜席でした。”. twitter. 2023年4月18日閲覧。
- ^ 大友浩『落語家のことば』芸術新聞社、2018年7月25日、203頁。ISBN 9784875865421。
- ^ “古今亭右朝”. 落語協会. 2021年5月19日閲覧。
- ^ あやこ (2011年4月30日). “没後十年追悼『古今亭右朝を偲ぶ会』@築地本願寺ブディストホール”. 本日ハ晴天ナリ. nifty. 2023年10月1日閲覧。
- ^ 高田文夫 (2023年3月23日). “第58回『右朝ふたたび』”. 高田文夫の『おもひでコロコロ』~バウバウ昼ズ編~. ニッポン放送. 2023年5月5日閲覧。