荘尤
荘 尤(そう ゆう、? - 23年)は、中国の新代の武将・政治家。字は伯石。王莽に仕えた将軍である。史書では厳尤と表記されているが、これは後漢の明帝の諱「荘」を避けているためである。
事跡
[編集]対外戦争での活躍
[編集]姓名 | 荘尤 |
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時代 | 新代 |
生没年 | 生年不詳 - 23年(更始元年) |
字・別号 | 伯石(字) |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 討穢将軍〔新〕→大司馬〔新〕
→納言将軍〔新〕→大司馬〔劉望〕 |
爵位・号等 | 武建伯〔新〕 |
陣営・所属等 | 王莽→劉望(劉聖) |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
始建国2年(10年)、王莽は匈奴単于の称号を降奴服于と改め、立国将軍孫建に12人の将軍を率いさせ、五路からこれを討伐させた。荘尤は討穢将軍として12人の将軍の1人となり、誅貉将軍陽俊と共に漁陽郡から出撃している。
始建国4年(12年)、王莽は高句麗に匈奴討伐を命じたが、高句麗軍はそれを望まずに退却し、退却を阻もうとした遼西大尹の田譚は高句麗軍に殺害された。王莽が怒って高句麗を討伐しようとすると、荘尤は高句麗を赦すよう進言したが、王莽は聞かず、荘尤に高句麗討伐を命じた。荘尤は高句麗侯騶を討ち取り、その首級を長安に送っている。
天鳳3年(16年)7月の日食の出現を理由に、大司馬陳茂が罷免されたため、武建伯に封じられていた荘尤が、後任の大司馬に任命された。
天鳳6年(19年)、荘尤は王莽から匈奴攻撃を命じられたが、荘尤はまず国内の赤眉軍などに対処すべきであるとして、故事をもって婉曲に諌めた。しかし王莽の激怒を買い、大司馬、武建伯の位を剥奪され、故郷に帰された。
漢軍との戦い
[編集]その後、時期は不明だが、荘尤は納言将軍(「納言」は大司農に相当)として復帰し、地皇3年(22年)、秩宗将軍陳茂と共に、王常率いる荊州の反新軍である下江軍を撃破している。しかし、翌地皇4年(23年)、荘尤と陳茂は、劉縯率いる反新軍に育陽(南陽郡)で敗北した。そのため、荘尤・陳茂は、荊州の更始帝(劉玄)を討伐するための大司空王邑・大司徒王尋の新軍主力部隊に合流している。
同年5月、漢(更始帝政権)の大司徒となっていた劉縯は、宛(南陽郡。荊州の中心地)を攻撃した。しかし王邑らは、宛に向かう前に、漢に占領されていた昆陽(潁川郡)をまず包囲、陥落させようとした。荘尤は、劉縯を討ち取ることが重要であるとして宛への攻撃を進言したが、王邑らは聞かず、昆陽を包囲し続けた。また、昆陽に立て籠もっていた漢軍の王鳳が降伏しようとすると、王邑はこれを赦さず、さらに包囲を強める。荘尤は、戦意を失っている敵に対しては、逃げ道を一方向だけ作るべきである旨を進言したが、これも受け入れられなかった。その結果、王鳳らは必死になって新軍に抵抗してしまう。昆陽攻略に梃子摺っている間に、宛は劉縯に陥落させられ、さらに翌月、昆陽城を脱出していた漢軍の劉秀が援軍を連れて戻り、王邑らの軍は大敗を喫した(昆陽の戦い)。
荘尤と陳茂は譙(沛郡)へ逃れ、ここで新を見限り、漢朝の将軍を号した。この時の荘尤は、新は滅亡すべきで漢が復興すべきであると、沛の官吏や民衆に対して演説し、一方の陳茂は地に伏して哭泣したという。しかし荘尤と陳茂は、荊州の更始帝には降らなかった。更始元年(23年)8月、漢では鍾武侯であった劉望(『漢書』では「劉聖」)が汝南郡で皇帝を自称していると聞くと、2人はこれに投降し、荘尤は大司馬、陳茂は丞相に任命された。
更始帝は、皇帝を称した劉望の政権を敵とみなし、大司徒劉賜を派遣してこれを討伐させたが、荘尤らは劉賜を撃退する。しかし同年10月、続いて討伐に来た奮威大将軍劉信に敗れ、劉望・荘尤・陳茂はいずれも戦死した[1]。
人物像
[編集]『漢書』王莽伝では、智略に優れた人物との記述がある。また、『後漢書』光武本紀の注によれば、劉秀と面識があり、その才能を評価していたようである。後に劉秀が反新挙兵を企んでいると聞くと、荘尤は「あの髭(顎鬚)と眉の美しい男が、何でそんなに(大人物に)なったのか」と笑って言ったという。
脚注
[編集]- ^ 『漢書』王莽伝は、わずか十数日で荘尤らは戦死したとしている。ただ、十数日の起点が、荘尤の大司馬就任日、劉賜の討伐開始日、劉信の討伐開始日のいずれであるかは不明である。