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原敬太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原 敬太郎
生誕 1885年明治18年)10月13日
日本の旗 日本高知県
死没 1963年昭和38年)1月13日
所属組織 日本海軍
軍歴 1906年(明治39年) - 1938年(昭和13年)
最終階級 海軍中将
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原 敬太郎(はら けいたろう、1885年10月13日 - 1963年1月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

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1885年(明治18年)10月、高知城下本町(現在の高知市)に生まれた。高知県尋常中学校を経て、1905年(明治38年)11月、海軍兵学校33期)を卒業。翌年12月、海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科で学び、優等で卒業。次いで1920年(大正9年)11月、海軍大学校(甲種18期)を卒業。

1920年12月、「扶桑」砲術長となり、海軍教育本部員に異動し、1921年(大正10年)12月、海軍中佐に進級。1923年(大正12年)4月、組織改正により海軍省教育局員となり、第1艦隊参謀連合艦隊参謀、横須賀鎮守府付を経て、1925年(大正14年)12月、海軍大佐に昇進。その後、欧米各国に出張。

1926年(大正15年)10月、砲術学校教頭に就任し、横須賀鎮守府付、「羽黒」艤装員長・艦長、「伊勢」艦長、軍令部出仕、「長門」艦長などを歴任。1931年(昭和6年)12月、海軍少将に進級し砲術学校長に就任。第6戦隊司令官を経て、1935年(昭和10年)11月、海軍中将に進み第1戦隊司令官となった。

1936年(昭和11年)6月、第3戦隊司令官に就任し、鎮海要港部司令官、軍令部出仕を歴任し、1938年(昭和13年)3月、予備役に編入。

退役後は日本光学工業取締役を務めた。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]1963年(昭和38年)1月、77歳で死去。

栄典

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脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」12頁。
  2. ^ 『官報』第7084号「叙任及辞令」1907年2月13日。

参考資料

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  • 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。