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占部雄貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

占部 雄貞(うらべ の おさだ、弘仁2年(811年) - 天安2年4月10日858年5月26日))は、平安時代初期の人物は宿禰。神祇権少副・壹伎氏成の子とする系図がある。官位従五位下宮主

経歴

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壱岐卜部氏は神代より亀卜に携わったとされるが、雄貞は兄弟の中で最も亀卜の術に優れた[1]仁明朝で宮主に任ぜられ、嘉祥3年(850年文徳天皇即位に伴い大宮主に任ぜられた。また、同年9月には八十島祭のために摂津国難波津へ遣わされている[2]斉衡2年(855年従五位下に叙せられ、斉衡3年(856年)には一族の神祇少祐卜部業基らとともに占部宿禰姓に改姓している。

天安2年(858年)4月10日卒去享年48。最終官位は宮主外従五位下。

人物

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を好んだが、酒色に耽って荒んだ生活を送るようになり、死去したという[1]

官歴

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日本文徳天皇実録』による。

系譜

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  • 父:卜部氏成[3]
  • 母:不詳
  • 妻:不詳

脚注

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  1. ^ a b 『日本文徳天皇実録』天安2年4月10日条
  2. ^ 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年9月8日条
  3. ^ a b c 「松尾社家系図」『続群書類従』巻第181所収

参考文献

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