南西戦線 (ロシア内戦)
南西戦線 Юго-Западный фронт | |
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活動期間 | 1920年1月20日 - 12月5日 |
国籍 | ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 |
軍種 | 赤軍 |
主な戦歴 |
ロシア内戦 ポーランド・ソビエト戦争 ウクライナ・ソビエト戦争 |
参謀長 | ニコライ・ペチン |
著名な司令官 | アレクサンドル・エゴロフ |
南西戦線(なんせいせんせん、ロシア語: Юго-Западный фронт)は、ロシア内戦中の1920年に赤軍に形成されていた編制。
沿革
[編集]1920年1月20日、赤軍司令官指令に基づき南部戦線から編成された。同月から2月には退却する南ロシア軍に対する追撃を行い、オデッサ作戦 (ru) の成功により2月7日にオデッサを占領した。翌3月7日にはモズィリ=オーヴルチ=コーロステニ=レチチェフ=ドニエストル川の線上に展開し、白軍ヤーコフ・スラシチョフ将軍の占領下にあったクリミアの奪回を図ったが、失敗した[1][2]。
その後、戦線は2方向の戦略行動に参加した。西方ではポーランド第二共和国軍、スタニスラウ・ブラーク=バラホーヴィチ軍、ウクライナ人民共和国軍、ボリス・サヴィンコフ軍と戦った。4月から5月には前進するポーランド軍に押され、モズィリ、オーヴルチ、コーロステニ、キエフを離れてドニエプル川左岸に移動した。しかし同月から翌6月には反攻に転じ、キエフを奪回してポレシエからドニエストル川までポーランド軍を追撃した。その後、7月までのノヴォグラード・ヴォルィーンスキー作戦とロヴノ作戦でポーランド軍を打倒し、リュブリンとリヴォフに達した。しかしリヴォフの占領には至らず、翌8月には退却を余儀なくされた。10月18日にポーランド・ソビエト戦争が停戦すると、戦線は国境まで撤収した[1][2]。
一方クリミアではピョートル・ヴラーンゲリ軍と戦い、ドニエプル川右岸まで撤退してヘルソン=ニーコポリ=トクマク=ベルジャンスク線上で防衛線を戦った。しかし8月にはカホフカ橋頭保の戦いに勝利し、翌9月には第13軍 (ru) の左翼が前進してアレクサンドロフスク、オレホフ、シネリニコヴォを占領。ドンバスを脅かした。9月には、クリミアの南西戦線は南部戦線に属していた[1][2]。12月5日、南西戦線司令部はキエフ軍管区司令部に編入され、麾下の部隊もすべてキエフ軍管区に編入された[1][2]。
構成
[編集]司令官[1]
革命軍事会議メンバー[1]
- ヨシフ・スターリン(1月10日 - 8月17日)
- レインゴリド・ベルジン(1月10日 - 12月31日)
- レオニード・セレブリャコフ(1月11日 - 2月5日)
- ミロン・ウラジーミロフ(1月11日 - 6月19日)
- フリスチアン・ラコフスキー(2月15日 - 10月9日)
- セルゲイ・グセフ(9月3日 - 10月15日)
- セミョーン・アラロフ(11月21日 - 12月31日)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h М. : Гражданская война и военная интервенция в СССР: Энциклопедия. — (Советская энциклопедия / гл. ред. С. С. Хромов ; 1983).
- ^ a b c d e Центральный государственный архив Советской армии. Vol. 1 в 2 томах. Minneapolis, Minnesota: East View Publications. Л. В. Двойных, Т. Ф Каряева, М. В. Стеганцев. 1991. ISBN 1-879944-02-2。