南条文五郎
表示
南条文五郎 なんじょう ぶんごろう | |
---|---|
| |
生年月日 | 1842年11月16日 |
出生地 |
日本 陸奥国栗原郡太田村 (現・宮城県栗原市) |
没年月日 | 1905年4月4日(62歳没) |
前職 | 農業 |
所属政党 | 帝国党 |
称号 | 勲四等 |
選挙区 | 宮城県郡部選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1902年8月 - 1905年4月4日 |
栗原郡会議員 | |
玉沢村会議員 | |
太沢村会議員 | |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1880年5月 - 1902年8月 |
南条 文五郎(南條、なんじょう ぶんごろう、1842年11月16日(天保13年10月14日[1])- 1905年(明治38年)4月4日[1][2][3][注釈 1])は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]陸奥国栗原郡太田村[4][5](宮城県[2]栗原郡太沢村[1][6][7]、玉沢村[3][8]、築館町字太田を経て現栗原市築館太田)で、肝煎(庄屋)・南条彦作(親章[6][7])の二男として生まれた[1][4][5]。普通学、武道を修めた[2]。農業を営む[2][3]。
1871年(明治4年)太田村副戸長に就任[4][5][8][注釈 2]。1880年(明治13年)5月に宮城県会議員に選出され[1][8][9]、1902年(明治35年)8月15日の辞職まで8期在任し[1][5][8][9][10]、常置委員、参事会員、地方衛生会委員、徴兵参事員なども務めた[1][2][4][6][7]。その他、太沢村会議員、玉沢村会議員、栗原郡会議員にも在任した[1][2][3]。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙(宮城県郡部、帝国党)で初当選し[1][4][5][8]、その後、第9回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した[1][2][3][4][5][8]。議員在任中の1905年4月に死去した[11]。
また、仙台産牛馬組合長、宮城県馬匹調査員などを務め、産馬改良に尽力した[1][2][3][4][5][8]。その他、宮城県農工銀行取締役となった[1][2][3]。
国政選挙歴
[編集]- 第7回衆議院議員総選挙(宮城県郡部、1902年8月、帝国党)当選[12]
- 第8回衆議院議員総選挙(宮城県郡部、1903年3月、帝国党)当選[12]
- 第9回衆議院議員総選挙(宮城県郡部、1904年3月、帝国党)当選[12]
親族
[編集]栄典
[編集]勲章等
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 『宮城県議会史 第1巻』付録173頁。
- ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』473頁。
- ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』336頁。
- ^ a b c d e f g h 『宮城県百科事典』810頁。
- ^ a b c d e f g 『宮城県姓氏家系大辞典』390頁。
- ^ a b c 『宮城県国会議員候補者列伝: 一名・撰挙便覧』南1-4頁。
- ^ a b c 『宮城県国会議員候補者列伝』44-45頁。
- ^ a b c d e f g 『仙台人名大辞書』821頁。
- ^ a b c d 『宮城県議会史 第2巻』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『宮城県議会史 第2巻』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『官報』第6526号、明治38年4月6日。
- ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』20頁。
- ^ 宮城県議会史編さん委員会編『宮城県議会史 第2巻』宮城県議会、1974年、附録197頁。
- ^ 『宮城県議会史 第2巻』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
[編集]- 日野欽二郎 (冷々居士)『宮城県国会議員候補者列伝 : 一名・撰挙便覧』知足堂、1890年。
- 藻塩舎主人『宮城県国会議員候補者列伝』晩成書屋、1890年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会、1933年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 宮城県議会史編さん委員会編『宮城県議会史 第1巻』宮城県議会、1968年。
- 『宮城県百科事典』河北新報社、1982年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 竹内理三ほか編『宮城県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典4、角川書店、1994年。