南方24号墳
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南方24号墳 | |
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墳丘・石室開口部 | |
所属 | 南方古墳群(大貫支群) |
所在地 | 宮崎県延岡市大貫町5丁目 |
位置 | 北緯32度34分15.63秒 東経131度38分54.15秒 / 北緯32.5710083度 東経131.6483750度座標: 北緯32度34分15.63秒 東経131度38分54.15秒 / 北緯32.5710083度 東経131.6483750度 |
形状 | 円墳 |
規模 |
直径21m 高さ4.2m |
埋葬施設 | 両袖式横穴式石室 |
出土品 | 丸玉・鉄刀・鉄鏃・須恵器 |
史跡 | 国の史跡「南方古墳群」に包含 |
地図 |
南方24号墳(みなみかたにじゅうよんごうふん)は、宮崎県延岡市大貫町にある古墳。形状は円墳。南方古墳群(国の史跡、うち大貫支群)を構成する古墳の1つ。
概要
[編集]宮崎県北部、延岡市街地西部の低丘陵(浄土寺山)上に築造された古墳である。古くは江戸時代に開口し、1913年(大正2年)に鳥居龍蔵による調査が実施されている。
墳形は円形で、直径約21メートル・高さ4.2メートルを測る[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室である。単室構造の石室で、石室の石材には巨石を使用する。宮崎県北部では最大規模の石室であり、延岡市内の横穴式石室は本古墳と南方2号墳のみとして注目される。石室内は盗掘に遭っているが、大正2年の調査では鉄刀・鉄鏃・須恵器が検出されている。
古墳域は1943年(昭和18年)に国の史跡に指定されている(史跡「南方古墳群」のうち)。現在では石室内への立ち入りは制限されている。
遺跡歴
[編集]- 江戸時代後期、延岡藩主の内藤政韶が浄土寺山の古墳を調査(本古墳か)[2]。
- 1913年(大正2年)、鳥居龍蔵による調査、鉄刀片1・鉄鏃2・須恵器の出土[1]。
- 1943年(昭和18年)9月8日、国の史跡に指定(史跡「南方古墳群」のうち)。
- 1943年(昭和18年)、台風による石室入り口付近の崩壊[3]。
- 1978年(昭和53年)、墳丘・石室の修復・復元。鉄鏃片・丸玉1の出土[1]。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されている。玄室・羨道からなる単室構造の石室である。石室の規模は次の通り[3]。
- 玄室:長さ4.3メートル、幅1.58-2.13メートル、高さ2.20-2.52メートル
- 羨道:長さ4.80メートル、幅0.93-1.37メートル、高さ1.30-1.57メートル
石室の石材には巨石が使用される。玄室の奥壁は2段積み。玄室の天井石は4枚、羨道の天井石は5枚。
石室内は盗掘に遭っているが、大正2年の調査では石室内から鉄刀片1・鉄鏃2・須恵器片(坏・甕)が検出されている[3][1]。
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玄室(奥壁方向)
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玄室(開口部方向)
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羨道(開口部方向)
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羨道(玄室方向)
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開口部
脚注
[編集]- ^ a b c d 史跡説明板。
- ^ 南方古墳群(平凡社) 1997.
- ^ a b c 延岡市史 下巻 1983.
参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(延岡市教育委員会、2012年設置)
- 地方自治体発行
- 『史跡南方古墳群 保存管理計画書』延岡市教育委員会、1979年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 「南方古墳群」『延岡市史』 下巻、延岡市、1983年。
- 「南方古墳群」『宮崎県史』 資料編 考古2、宮崎県、1993年。
- 事典類
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 鳥居龍蔵『上代の日向延岡』鳥居人類学研究所、1935年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 南方古墳群 - 宮崎県「みやざき文化財情報」
- 南方古墳群(大貫支群) - 延岡市ホームページ