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南単徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なん たんとく

南 単徳
生誕 699年
死没 776年
職業 官僚
将軍
南于
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南 単徳
各種表記
ハングル 남단덕
漢字 南 単徳
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: なん たんとく
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南 単徳(なん たんとく、朝鮮語: 남단덕699年 - 776年)は、官僚将軍中国系高句麗人[1][2]。饒陽郡王、開府儀同三司、右金吾衛大将軍、食邑三千户を任官、磨米州都督を担当した[3]長安永寧里の私第で死亡、「万年県崇義郷胡村白鹿之西原」に埋葬された[3]。南単徳の墓誌によると、南氏の祖先は中古時期中原の戦乱を避けて、平壤に移住していた[3]

人物

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南単徳の墓誌2010年西安市東灞橋区紅旗郷から出土しており、西安碑林博物館が所蔵している。南単徳墓誌銘の作者は唐の著名な将軍である薛仁貴の子孫の薛夔である。南単徳のほうが薛夔より年長であるが、二人は早くに知り合い、薛夔は南氏の家族の入唐後の任官情况をも了解しており、また薛夔は、秘書省著作局で佐郎を担当しており、正三品級の官職にあった南単徳の墓誌銘を書く任務があてがわれた[3]。墓誌によると、南単徳は、先に長安で「内供奉射生」となり、その後、薛夔のおじの薛某の麾下で官を得て、中郎将に至る。安史の乱勃発後、南単徳は強迫されて反乱に参加したが、「公は麾管にあって、常に本朝をおもう」ために「衆をひきいて帰降」した[3]

南単徳の家族は、高句麗滅亡後、安東都護府管轄下の城傍の子弟として唐によって安置されていたが、その後、城傍子弟の首領となる。高句麗滅亡時の南単徳は幼年であったため、父親について安東都護府管轄下の城傍に安置されていた。遼東の高句麗故地の城傍は帰順した高句麗兵士を安置する行政組織として、唐の東北辺疆を護持する役割をもっていた。南単徳の祖父の南狄、南単徳の父親の南于は、先に安東都護府管轄下の城傍に安置され、何らかの職務を担当し、後に安東都護府管轄下の磨米州帰州に任官、唐の東北辺境の護持に功績をあげた[3]

脚注

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  1. ^ 장병진 (2015年). “새로 소개된 고구려 유민 ‘南單德’ 묘지에 대한 검토”. 고구려발해연구 vol.52 (고구려발해학회). オリジナルの2022年8月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220824175141/https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART002014942 
  2. ^ 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學校 東洋學硏究院): p. 100. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220423195439/https://cms.dankook.ac.kr/web/-oriental/-23?p_p_id=Bbs_WAR_bbsportlet&p_p_lifecycle=2&p_p_state=normal&p_p_mode=view&p_p_cacheability=cacheLevelPage&p_p_col_id=column-2&p_p_col_count=1&_Bbs_WAR_bbsportlet_extFileId=99960 
  3. ^ a b c d e f 拝根興 著、土屋昌明 訳『新発見入唐高麗移民墓誌からみた唐代東アジアの人流』専修大学社会知性開発研究センター〈専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報 3〉、2017年3月、71-75頁。 

参考文献

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