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半井瑞策

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半井驢庵 (2代目)から転送)
 
半井光成
時代 室町時代後期 - 安土桃山時代
生誕 大永2年(1522年)?[注釈 1]
死没 文禄5年8月25日1596年10月16日[1][2][注釈 2]
別名 驢庵[3]、瑞策、通仙軒→通仙院[3]
戒名 通仙院良室瑞策大居士[4]
墓所 大徳寺真珠庵[1][4]
官位 従五位上 宮内大輔[3][1]・典薬頭[1][注釈 3]
氏族 半井家
父母 父:半井明親(初代驢庵)[6]
兄弟 明英(寿琳)、光成(瑞策)、竹和軒、洞軒
成信(3代驢庵)[6]
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半井 瑞策(なからい ずいさく)は、室町時代後期から安土桃山時代医師。名は光成(みつなり[3])。瑞策は通称。晩年に剃髪して2代驢庵を名乗った。当代の名医として知られ、正親町天皇より『医心方』の写本を下賜されている。

生涯

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半井明親(初代驢庵)の二男として生まれる[3]。兄には半井明英(寿琳、閑嘯軒)がいる[3]。医学に優れていたために父の医業を継ぎ[3]、晩年に剃髪すると父の「驢庵」の号を受け継いでいる[3]。瑞策の子孫が「驢庵」の号や典薬頭を世襲したため、兄の明英が分家したような形となるが[7]、このためか瑞策を明英の子とする系図がある[3][4]

正親町天皇(在位: 1557年 - 1586年)の時代、法印に叙すことが検討されたが、先任の法印がいる場合にはその上席に就けることができないため[3]、深黒の素絹を着用することを許し[3]僧綱によらずに[5]法印の上席とした[3]。これは他の医官と異なる半井家の特例となった[3][注釈 4]。また、天皇の勅命により、従来の「通仙軒」を改めて「通仙院」という院号を名乗ることを許され[3]、『医心方』の写本を下賜された[3]

織田信長とは親しい関係となり[7]、信長は京都に入った際に半井家の屋敷[注釈 5]を宿舎とした[3][注釈 6]。また、豊臣秀吉からも殊遇を得た[3][7]

文禄5年/慶長元年(1596年)8月25日死去 [1][2]。ただし「半井家系図」では天正5年(1577年)8月25日没、享年75としており[8][5]、『寛政譜』はこの没日を採る(享年の記載はない)[6]大徳寺真珠庵に葬られた[4]

備考

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  • 名医として知られた人物で、さまざまなエピソードが伝わる。
    • 寛政重修諸家譜』では以下のような話を載せている。あるとき近江国の人を診察した際に「必死の脈」があると診た。その人は病気もないために不審に思われていたが、その人は翌日に矢に当たって死亡したために、世の人は医術の精妙なことを称えたという。また、このような話は枚挙にいとまがないとしている[9]
  • 正親町天皇から下賜された『医心方』の写本は典薬頭半井家で門外不出の書として秘蔵され、現代まで伝わる。『医心方』の現存最古の写本であり、『医心方(半井家本)』として国宝に指定されている(半井家#医心方(半井家本)参照)。
  • 大徳寺塔頭真珠庵は、瑞策の父・明親(初代驢庵)の墓所であり、瑞策とその家族も葬られた[10]。真珠庵には瑞策夫妻の肖像画が伝わる[7]
  • 正親町天皇から御殿一式を拝領した[4][2][注釈 7]。そのうち書院1棟は真珠庵に寄進され[注釈 8]、「通遷院」の名で現存する[2](「眞珠庵通仙院」として重要文化財[12])。ただし、通遷院(通仙院)については、江戸時代初期[注釈 9]に正親町天皇の女御の化粧殿を移築したもの、という説明もされる[13]。瑞策が拝領した御殿の他の部分については、瑞策の子孫である半井成近の時に江戸・元吉原の屋敷に移されたものの、明暦の大火で焼失した[4]。また、瑞策の甥の手によって一部が堺に移されたともいい、『堺市史』(1929年)によれば堺市熊野町東一丁[注釈 10]の半井家邸宅には唐破風造の玄関を有する建物があったという[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は生年を大永2年(1522年)とするが[1]、『朝日日本歴史人物事典』は大永2年に「?」を付して断定を保留する[2]。文禄5年(1596年)に75歳で没したとしての計算となる。
  2. ^ 文禄5年は12月に改元が行われており、「慶長元年」ともされる
  3. ^ 半井家側の史料では、従三位・宮内大輔・修理大夫となり昇殿を許されたとする[5]
  4. ^ 瑞策の子の半井成信(3代驢庵)は、父の先例に則り、法印に叙されずに「通仙院」の院号を称した[6]
  5. ^ 半井驢庵の屋敷は烏丸中立売上ルにあった[4]
  6. ^ 信長公記』巻三によれば、元亀3年(1572年)3月5日に入京した際に信長は半井驢庵邸に宿泊し、挨拶の者たちで門前が賑わったという。
  7. ^ 福井藩医半井家の出身である半井朴によれば、これは「正親町天皇の皇后」(典侍万里小路房子か)の病気を治療した、あるいは出産にたずさわった褒美という[11]
  8. ^ 石野によれば、真珠庵には茶室が建てられたとある[4]
  9. ^ 京都市観光協会サイトは「寛政15年」と記すが[13]この年号は存在せず、方丈が建立された寛永15年(1638年)の誤りと見られる。
  10. ^ 現在は堺区に属する。

出典

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  1. ^ a b c d e f 半井瑞策”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年8月8日閲覧。
  2. ^ a b c d e 半井瑞策”. 朝日日本歴史人物事典. 2023年8月8日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.610
  4. ^ a b c d e f g h 石野瑛 1937b, p. 326.
  5. ^ a b c d (七二)半井瑞策”. 堺市史 第七巻. 2023年7月19日閲覧。
  6. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.611
  7. ^ a b c d 石野瑛 1937a, p. 97.
  8. ^ 石野瑛 1937b, p. 320.
  9. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.610-611
  10. ^ 石野瑛 1937a, p. 98.
  11. ^ 石野瑛 1937b, p. 329.
  12. ^ 眞珠庵通仙院”. 国指定文化財等データベース. 2023年8月8日閲覧。
  13. ^ a b 真珠庵”. 京都市観光協会. 2023年8月8日閲覧。

参考文献

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