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半井成近

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
半井成近
時代 江戸時代前期
生誕 生年不詳[1]
死没 寛永16年10月9日(1639年11月4日)[1]
別名 勝麿[2][注釈 1](通称[1])、驢庵[1]、瑞寿(法名)[1]
戒名 法雲院仁室瑞寿大居士[4]
墓所 大徳寺真珠庵[2]
官位 従五位下 出羽守[2][注釈 2]
幕府 江戸幕府
氏族 半井家
父母 父:半井利親[2] 母:藤堂高虎の娘[2]
横浜一庵の娘[2]
成忠(5代驢庵)、瑞春、女子(清水瑞室の妻)、杏庵[5]
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半井 成近(なからい なりちか[1])は、江戸時代初期の医師。4代半井驢庵[1]、法名は瑞寿[1]。徳川幕府で奥医師の長である典薬頭を務めた[1]

生涯

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驢庵半井瑞寿館阯之碑(神奈川県海老名市)

半井驢庵家に生まれる。父の利親(瑞玄)は慶長8年(1603年)に25歳で没した[2]。母は藤堂高虎の娘[2]

寛永元年(1624年)10月、江戸に召し出されて徳川家光に仕えた[2]。この年、祖父の半井成信(3代驢庵、瑞桂)は通仙院を号し、剃髪した成近に驢庵の号を譲った[2]。寛永5年(1628年)には家光の疱瘡や瘧疾[注釈 3]に対して調薬を行った[2]。寛永7年(1630年)には幕府からの執奏により、朝廷から素絹の着用を許された[2]

寛永8年(1631年)の年頭には奥医師の筆頭として拝謁した[2]。寛永9年(1632年)10月27日、相模国高座郡で1000石の知行を与えられた[2]

寛永10年(1633年)5月21日には将軍の命により、小田原藩稲葉正勝の病気を診察するために小田原に派遣される[2]。寛永14年(1637年)、家光の病気の診察にあたる[2]。同年、家蔵の『聖済総録』に欠本があったため、幕府所蔵本から写本を行って補うことを願い出、全200冊を整えた[2]

その後、家光の勘気を被り[2]、一時期奥医師から外された[1]。寛永15年(1638年)9月17日に赦免されて職務に復帰した[2]

成近は江戸来住後も隔年で京都に赴き、朝廷に奉仕した[3]。寛永16年(1639年)3月11日、家光の命を受けて京都に派遣されて、「御咳気」を患った東福門院の治療にあたった[2]。同年6月9日には、久志本常尹と交互に朝廷に勤仕するよう命じられた[2]

同年6月15日、祖父の遺領[注釈 4]であった山城国愛宕郡内の500石[注釈 5]も合わせ、合計1500石を知行した[2]。しかし同年10月9日に京都で没した[2]

驢庵屋敷

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江戸屋敷

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寛永元年(1624年)に幕府に召し出された際、成近(驢庵)の屋敷は元吉原(中央区日本橋人形町付近)に設けられた[3]。なお、驢庵の江戸屋敷は子の半井成忠(5代驢庵)の時代に明暦の大火で焼失し、小川町(千代田区神田小川町)・表猿楽町(千代田区神田猿楽町)に移転した[3]

相模国の下屋敷

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有馬のハルニレ

知行地の相模国高座郡本郷村(恩馬本郷村とも[3]。現在の神奈川県海老名市本郷)には下屋敷が設けられ[3]、「驢庵屋敷」の名で伝えられた[8]。付近には「驢庵坂」などの地名が残る[9]。1936年に「驢庵半井瑞寿館阯之碑」が建碑されている[8][注釈 6]

同地には成近が植えたとされるハルニレの木が現存する(有馬のハルニレ[9]

家族・親族

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『寛政重修諸家譜』によれば、以下の子女がいる[5]

  • 長男:半井成忠(5代驢庵)
  • 二男:半井瑞春
  • 女子 - 清水瑞室(亀庵)の妻。のち清水亀庵家が断絶したため、半井家に帰る。
  • 三男:半井杏庵

母は藤堂高虎の娘、妻は横浜一庵(正勝)の娘[2][3]。「半井家先祖書」によれば、横浜一庵の正室は藤堂高虎の養女であり[11]、半井家・藤堂家・横浜家は重縁関係にある[11][注釈 7]。成近の母(藤堂高虎の娘)は一庵が開基となった泉涌寺照善院に葬られた[13]

脚注

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注釈

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  1. ^ 石野は「勝丸」を幼名とする[3]
  2. ^ 「半井家先祖書」によれば、従四位下・侍従・典薬頭・左兵衛督・出羽守という[3]
  3. ^ 間欠的に発熱と悪寒を繰り返す病。マラリアなどとされる[6]
  4. ^ 祖父の成信(瑞桂)は、寛永15年(1638年)4月11日(一説に寛永11年(1634年)4月11日)に死去した[2]
  5. ^ 大原郷5か村[7]。家伝によれば「桓武天皇の時代」からの相伝の領地という[2]
  6. ^ 1936年、驢庵屋敷跡のある有馬村(当時)を「同姓」の神奈川県知事・半井清が訪れたことを契機として、地元で史跡整備の機運が高まった[8]。半井清は岡山県出身の衆議院議員・福井三郎の子であるが、絶家となっていた半井家を再興したという[10]
  7. ^ 『寛政譜』の藤堂高虎の譜には、半井家・横浜家に嫁いだ娘・養女の記載がない[12]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 半井成近”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年7月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.611
  3. ^ a b c d e f g h 石野瑛 1937b, p. 322.
  4. ^ 石野瑛 1937b, pp. 322–323.
  5. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.611-612
  6. ^ ”. デジタル大辞泉. 2023年8月7日閲覧。
  7. ^ 石野瑛 1937b, p. 318.
  8. ^ a b c 石野瑛 1937b, p. 316.
  9. ^ a b えびな歴史めぐり【3】海老名の武将 〜半井驢庵〜”. タウンニュース 海老名・座間・綾瀬版 (2019年12月20日). 2023年7月19日閲覧。
  10. ^ 『人事興信録 第12版(昭和14年) 下』p.ナ172
  11. ^ a b 石野瑛 1937b, p. 323.
  12. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第九百「藤堂」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.714
  13. ^ 石野瑛 1937b, p. 324.

参考文献

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