コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

千頭久米夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千頭 久米夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県
生年月日 (1922-12-03) 1922年12月3日
身長
体重
164 cm
58 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手三塁手遊撃手外野手
プロ入り 1950年
初出場 1950年3月11日
最終出場 1954年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

千頭 久米夫(ちかみ くめお、1922年12月3日 - 没年不明)は、福岡県出身の元プロ野球選手二塁手三塁手遊撃手外野手)。

来歴・人物

[編集]

福岡工業(現・福岡県立福岡工業高等学校)在学中には、甲子園に2回(春1回〈1940年〉、夏1回〈1940年〉)出場。1940年春の大会ではベスト4まで進出した。福岡工時代のチームメイトに、上野義秋大崎憲司伴勇資(いずれも後に、西日本鉄道硬式野球部及び西鉄でもチームメイトになる。)がいる。

福岡工業卒業後は、社会人野球のチームを転々とした。藤倉電線西日本鉄道硬式野球部→豊岡物産→日本コロムビアと所属し、都市対抗野球大会や日本野球界初の天覧試合(豊岡物産時代)にも出場した。1948年第19回都市対抗野球大会では、遊撃手としてチームの優勝に貢献。この時のチームメイトには、先述の上野,大崎,伴の他に、武末悉昌投手・宮崎要監督兼二塁手・深見安博三塁手・塚本悦郎中堅手がおり、後に西鉄の草創期を形成するメンバーとなった。

1950年にこの年新設された西鉄クリッパースに入団。二塁・三塁・遊撃・外野をこなすユーティリティープレイヤーとして活躍した。1951年9月23日阪急戦(後楽園スタヂアム)では川口敬次郎から、プロ野球通算5,000号となるメモリアルアーチを放っている(プロ野球記念本塁打一覧参照)。1953年に伴と共に東映フライヤーズに移籍し、翌1954年に引退した。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1950 西鉄 61 139 121 17 28 7 0 1 38 10 3 5 4 -- 14 -- 0 13 0 .231 .311 .314 .625
1951 59 143 135 22 39 6 1 5 62 24 5 1 4 -- 4 -- 0 6 1 .289 .309 .459 .768
1952 34 87 78 6 17 5 0 2 28 7 6 4 1 -- 8 -- 0 7 1 .218 .291 .359 .650
1953 東急
東映
66 90 81 9 14 5 0 0 19 3 5 4 1 -- 8 -- 0 16 1 .173 .247 .235 .482
1954 1 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:5年 221 459 415 55 98 23 1 8 147 44 19 14 10 0 34 -- 0 42 3 .236 .294 .354 .648

背番号

[編集]
  • 9 (1950年、1953年 - 1954年)
  • 2 (1951年 - 1952年)

脚注

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]