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千葉胤昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千葉胤昌
ちば たねまさ
生年月日 1843年1月11日
出生地 日本の旗 日本 陸奥国栗原郡文字村上葛峰
(現宮城県栗原市栗駒文字)
没年月日 (1914-01-11) 1914年1月11日(71歳没)
前職 水沢県第6大区学区取締掛
所属政党 (中央交渉会→)
(国民協会→)
無所属
親族 弟・熱海孫十郎(貴族院議員)

選挙区 宮城県第4選挙区
当選回数 2回
在任期間 1892年2月 - 1893年12月30日
1894年9月 - 1897年12月25日

当選回数 3回
在任期間 1879年1月 - 1890年2月

共議会議員
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千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年12月11日[1][注釈 1])- 1914年大正3年)1月11日[1][2][3])は、明治期の公吏、農業経営者、政治家衆議院議員。幼名・丹三郎[4]

経歴

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陸奥国栗原郡文字村[1][4][5][6]上葛峰[7]宮城県[2]栗原郡文字村[3]栗駒町を経て現栗原市栗駒文字)で、素封家・千葉忠蔵の長男として生まれた[1][6][7]。農業を営む[2][3]

1870年(明治3年)水沢県附属に就任し同年12月に辞職[4]。1873年(明治6年)7月、水沢県第6大区学区取締掛に任じられ、1874年(明治7年)8月に廃職となる[4]

1877年(明治10年)県会の前身である共議会議員に就任[1][6][7]。1879年(明治12年)1月、宮城県会議員に選出され1890年(明治23年)2月まで3期在任し[1][4][5][6][7]、常置委員も3期務めた[1][4][5][6][7]。国会開設運動の代表となり[1][6][7]、東北義会、抱一館幹事、宮城政会幹事などに在任し、宮城県政界の第一線で活動を行った[1][6]

1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙(宮城県第4区、中央交渉会)で初当選し[6]、1894年(明治27年)9月の第4回総選挙(宮城県第4区、国民協会)でも再選され、衆議院議員に通算2期在任した[2][3]

国政選挙歴

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親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』403頁では天保13年2月。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 『宮城県議会史 第1巻』付録172頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』403頁。
  3. ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』287頁。
  4. ^ a b c d e f 『宮城県国会議員候補者列伝』千1-2頁。
  5. ^ a b c 『仙台人名大辞書』735頁。
  6. ^ a b c d e f g h i 『宮城県百科事典』696頁。
  7. ^ a b c d e f g 『宮城県姓氏家系大辞典』382頁。
  8. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』35頁。
  9. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』93頁。

参考文献

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  • 日野欽二郎 (冷々居士)『宮城県国会議員候補者列伝 : 一名・撰挙便覧』知足堂、1890年。
  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会、1933年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 宮城県議会史編さん委員会編『宮城県議会史 第1巻』宮城県議会、1968年。
  • 『宮城県百科事典』河北新報社、1982年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 竹内理三ほか編『宮城県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典4、角川書店、1994年。