千葉胤昌
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千葉胤昌 ちば たねまさ | |
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生年月日 | 1843年1月11日 |
出生地 |
日本 陸奥国栗原郡文字村上葛峰 (現宮城県栗原市栗駒文字) |
没年月日 | 1914年1月11日(71歳没) |
前職 | 水沢県第6大区学区取締掛 |
所属政党 |
(中央交渉会→) (国民協会→) 無所属 |
親族 | 弟・熱海孫十郎(貴族院議員) |
選挙区 | 宮城県第4選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1892年2月 - 1893年12月30日 1894年9月 - 1897年12月25日 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1879年1月 - 1890年2月 |
共議会議員 |
千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年12月11日[1][注釈 1])- 1914年(大正3年)1月11日[1][2][3])は、明治期の公吏、農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・丹三郎[4]。
経歴
[編集]陸奥国栗原郡文字村[1][4][5][6]上葛峰[7](宮城県[2]栗原郡文字村[3]、栗駒町を経て現栗原市栗駒文字)で、素封家・千葉忠蔵の長男として生まれた[1][6][7]。農業を営む[2][3]。
1870年(明治3年)水沢県附属に就任し同年12月に辞職[4]。1873年(明治6年)7月、水沢県第6大区学区取締掛に任じられ、1874年(明治7年)8月に廃職となる[4]。
1877年(明治10年)県会の前身である共議会議員に就任[1][6][7]。1879年(明治12年)1月、宮城県会議員に選出され1890年(明治23年)2月まで3期在任し[1][4][5][6][7]、常置委員も3期務めた[1][4][5][6][7]。国会開設運動の代表となり[1][6][7]、東北義会、抱一館幹事、宮城政会幹事などに在任し、宮城県政界の第一線で活動を行った[1][6]。
1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙(宮城県第4区、中央交渉会)で初当選し[6]、1894年(明治27年)9月の第4回総選挙(宮城県第4区、国民協会)でも再選され、衆議院議員に通算2期在任した[2][3]。
国政選挙歴
[編集]- 第2回衆議院議員総選挙(宮城県第4区、1892年2月、中央交渉会)当選[8]
- 第3回衆議院議員総選挙(宮城県第4区、1894年3月、国民協会)次点落選[8]
- 第4回衆議院議員総選挙(宮城県第4区、1894年9月、国民協会)当選[9]
- 第6回衆議院議員総選挙(宮城県第4区、1898年8月、無所属)次点落選[9]
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』403頁では天保13年2月。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 日野欽二郎 (冷々居士)『宮城県国会議員候補者列伝 : 一名・撰挙便覧』知足堂、1890年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会、1933年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 宮城県議会史編さん委員会編『宮城県議会史 第1巻』宮城県議会、1968年。
- 『宮城県百科事典』河北新報社、1982年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 竹内理三ほか編『宮城県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典4、角川書店、1994年。