千本城 (下野国)
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千本城 (栃木県) | |
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別名 | 須藤城、教ヶ岡城[1] |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 千本為隆 |
築城年 | 1195年(建久6年)[1] |
主な城主 | 千本氏 |
廃城年 | 1628年(寛永5年)[2] |
遺構 | 本丸跡、二の丸跡、連結郭、帯郭、腰郭、武者走り[2] |
指定文化財 | 県指定史跡 |
位置 | 北緯36度34分38秒 東経140度8分56秒 / 北緯36.57722度 東経140.14889度座標: 北緯36度34分38秒 東経140度8分56秒 / 北緯36.57722度 東経140.14889度 |
地図 |
千本城(せんぼんじょう)は、栃木県芳賀郡茂木町町田にあった日本の城。
別名を須藤城、教ヶ岡城[1]。 規模は標高240m、東西に90m、南北に370m[1]。
現在は『千本城跡』として栃木県指定史跡になっており[1]、羽黒神社が鎮座し、サクラの名所としても知られている[3]。
概要
[編集]那須資隆の十男・為隆が、源氏に属して平家滅亡に功をあげたことで、1195年(建久6年)[1]に千本を領して、教ヶ岡(千本)城を築いて以来、千本氏の居城となった[2]。
1551年(天文20年)1月[2]には、千本資俊が芳賀高定と謀り、那須高資を誘殺する事件の舞台になる。
これが元で、1585年(天正13年)12月8日に、千本資俊および千本資政の父子は、殺害された那須高資の甥・那須資晴の陰謀に会い、烏山の太平寺にて謀殺され、城は落城した[2]。
千本氏は一時断絶し、その後、茂木三郎の二男・義政が千本義隆と称し千本城に養子に入り、茂木系千本氏が誕生する[2]。
1628年(寛永5年)、千本義等の時に、城は炎上したとされる[2]。