千島武司
千島武司 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
生年月日 | 1952年 |
死没 | 1977年12月16日 |
騎手情報 | |
所属団体 | 道営競馬 |
所属厩舎 | 千島一巳 |
初免許年 | 1969年 |
騎手引退日 | 1977年12月16日 |
通算勝利 | 2804戦679勝 |
千島 武司(ちしま たけし、1952年 - 1977年12月16日)は、日本の元騎手(道営所属)。
父の千島一巳は道営の調教師(当時)であった。
弟の千島勇一は北海道斜里郡小清水町にある「千島北斗牧場」2代目場長[1]。
実子の千島俊司[2]は元馬術選手で競馬学校教官も務め、現在は東京都葛飾区にある立石熊野神社の宮司[3] [4]。サンケイスポーツでコラム「御利益GI予想」も連載[5]。
略歴
[編集]1969年にデビューし、1年目の同年から18勝(190戦)を挙げる。1972年に415戦96勝を挙げて初のリーディングを獲得すると、その後も1973年・1974年・1976年・1977年と5度もリーディングを獲得[2]。道営においてリーディング5回の記録は、2005年に五十嵐冬樹が6回目のリーディングを獲得するまで史上1位の記録であったほか、1976年に記録した130勝(勝率30.4%)の記録も、2007年に五十嵐が更新するまで史上1位であった。五十嵐は2007年10月16日の札幌第10競走JAしずない万馬券特別・キャサリンダイヤで更新したが、管理する村上正和調教師は騎手時代、千島の弟弟子であった。1976年にはミスダイリンで大井の全日本アラブ大賞典に遠征し、2分46秒3のレコードで勝利[2]。この時に記録したダート2600mのタイムは、大井でアラブ競走が廃止された1996年まで一度も破られなかった。
1977年12月16日早朝、調教中の1歳馬に蹴られたことによる[2]脳挫傷のため死去、25歳没。
僅か9年間の短い現役生活で5回のリーディングを獲得したことや、通算勝率の24.2%も安藤勝巳の通算勝率(地方のみ)を上回るなど素晴らしい成績を残しており、早すぎる死が惜しまれる騎手であった。
通算成績
[編集]2804戦679勝(勝率:24.2%)
主な騎乗馬
[編集]※太字、斜体は地方全国交流競走。
- タキカワランド(1972年道新杯)
- マルサンフアイヤ(1973年北海優駿・日本中央競馬会理事長賞、1975年農林大臣賞典・道営記念)
- ミスダイリン(1973年エルム賞・ジュニアチャンピオン、1974年銀杯・センジユスガタ記念・アラブ優駿・帯広記念、1976年全日本アラブ大賞典・岩見沢記念・旭川記念・黄菊賞)
- キヨイヒカル(1973年道新杯)
- キオカジヨー(1973年HBC杯)
- フクハルミ(1974年ジュニアチャンピオン)
- ミカサホマレ(1974年北海優駿)
- シエスタイム(1974年日本中央競馬会理事長賞)
- キヨウワジヤンボ(1974年ジュニアカップ)
- カネヤマサウンド(1975年北海道3歳優駿、1976年北海優駿・クイーンカップ)
- オシマエルシド(1976年ゴールドトロフィー)
- オシヨロハヤテ(1977年栄冠賞)
- ツルギウイン(1977年北海盃・アラブ優駿)
- カミノカチドキ(1977年北海道3歳優駿)
- カネヤマスター(1977年旭川記念)